国際・政治危ない中国

西欧諸国への「復讐の歴史」? 中国共産党の100年史を振り返る

    毛沢東中国共産党主席(当時)の追悼大会当日、毛沢東主席の遺影と半旗が掲げられた北京市内の建物=中国北京市で1976年(昭和51年)9月18日、中西浩撮影
    毛沢東中国共産党主席(当時)の追悼大会当日、毛沢東主席の遺影と半旗が掲げられた北京市内の建物=中国北京市で1976年(昭和51年)9月18日、中西浩撮影

    アヘン戦争の結果、英国に割譲されたのが香港島。香港は中国にとって「屈辱の近代」の象徴でもある。

    孫文らが1911年に起こした辛亥(しんがい)革命で、中華民国が成立。

    19年には第一次世界大戦後のベルサイユ条約に反対する学生らによる反日・愛国の「五四運動」が起きる。

    この運動に大きな影響を与えたのは、17年のロシアの社会主義革命であった。

    当時の中国でマルクス・レーニン主義は、帝国主義列強と旧体制の支配システムを打ち負かす最強の武器として受け入れられた。

    21年7月、上海のフランス租界にあった東京帝国大学の卒業生・李漢俊の家に、秘密裏に集まった毛沢東など十数人とコミンテルン(共産主義インターナショナル)の代表により中国共産党が創建された。

    毛沢東ら共産党は満州事変が起きた31年、江西省瑞金に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立したが、国民党軍に包囲され内陸へ逃避行した。

    その後共産党は国民党に呼びかけ、36年の西安事件、37年盧溝橋事件後に第2次国共合作が成立した。

    45年8月、日本の敗戦と同時に、スターリンは国民党政権と中ソ友好同盟条約を締結し、中国共産党を支持しないことを確約する。

    しかし「国共内戦」で共産党が勝利し、49年10月1日、中華人民共和国が建国された。

    中国は共産党主導の社会主義路線へとかじを切る。

    56年のスターリン批判を機にソビエト共産党との関係は悪化、60年代には局地的な武力衝突にまでエスカレートした。

    周恩来は「不倒翁」

    毛沢東は58年、ソビエト型と決別した中国独自の「社会主義建設の総路線」を打ち出し、工業は西洋と「土法」(伝統技術)の併用を、農業では人民公社という形で集団化を進めた。

    この「大躍進」に、自然災害などが重なって多数の餓死者まで出すことになり、毛沢東は国家主席から退かざるを得なくなる。

    この間、毛に代わって国家主席となった劉少奇や、鄧小平らが農業生産の回復に尽力したが、党主席のポストにとどまっていた毛沢東は66年に、劉や鄧らを資本主義の路線をとる「走資派」として断罪し、紅衛兵を動員して「プロレタリア文化大革命」を起こし、権力を奪回した。

    『毛沢東語録』を振りかざしながらも、実務面をしっかり取り仕切っていたのが国務院総理・周恩来だった。

    周は幾度もの権力闘争の中でも最後まで失脚せずに政治生命を保ち続けた「不倒翁」であり、常に世界の動きを見つめていた。

    72年のニクソン米大統領訪中をキッシンジャー米大統領補佐官との極秘交渉で実現させたのも周であり、「四つの近代化」を提唱して「脱文革」への道筋をつけ、日本から円借款などの経済支援をとりつけたのも周であった。

    76年、毛沢東が死去し、文革の終結が宣言された。

    78年末には完全復活した鄧小平が提起した経済発展優先の「改革・開放」路線が決定された。

    80年代の中国はいよいよ資本主義国家の仲間入りをするのではないかと世界の関心が集中した。

    しかしそれはあくまでも経済分野に限定されたもの。86年に学生たちが中心になって要求した政治体制改革は、「ブルジョア自由化」として一蹴され、その責任をとって党総書記・胡耀邦は辞任させられた。

    その胡耀邦の急死が契機となって一気に燃えあがったのが、89年の学生や市民による広範な民主化要求運動だった。

    北京では戒厳軍の武力鎮圧で数百人の死者を出す未曽有の惨事となり、西側各国はすぐに経済制裁を発動、中国は再び孤立した。

    現実主義者の鄧小平

    この「6・4天安門事件」の直後、ソビエトや東欧では一連の反社会主義の動きが拡大した。

    中国共産党がおびえたのが東欧各国のような平和的な体制転覆(「和平演変」)であった。

    91年末にはソビエト連邦も消滅した。

    鄧小平を恐懼(きょうく)させたのは、同年初めの湾岸戦争だった。米国を主力とする多国籍軍はイラクを壊滅状態に追い込んだ。

    鄧小平が打ち出したのは、「『改革・開放』をさらに大胆に推し進めよ」と号令する一連のいわゆる「南巡講話」(92年)だった。

    それは「イラクもソビエトも外資を入れていなかったからやられたのだ。

    外資を『人質』とし、西側の経済と一体化してしまえば、絶対に敵対できない」という一党支配の体制防衛のための「兵法」だった。

    鄧は「経済発展を保証さえすれば、一党支配の維持は盤石だ」と確信した。

    「食べることが最優先」という中国の庶民の行動原則を知り尽くしたプラグマティスト(現実主義者)ならではの判断だ。

    「中国の『国情』を踏まえた『中国の特色をもつ社会主義』」。

    97年の香港「返還」を見届けぬまま逝った鄧なき後も、鄧小平路線は今もなお継続中だ。

    高度経済成長の中で、日本の自民党は社会党の福祉政策を吸収し、「ケインズ主義的福祉国家」を目指したが、今は弱肉強食の新自由主義路線。

    融通無碍(むげ)という点では中国共産党もまったく同様だ。「中体西用」を地で行く党でもある。

    「器(西)は変わっても中身(中)は不変のまま」というわけだ。

    歴史的に獲得した反帝国主義の正義の看板「共産党」と「社会主義」という「屋号」は今後も変わらないだろう。

    天安門事件で失脚した趙紫陽の後に据えた江沢民、そして胡錦濤から習近平へ。

    習の「『中華民族』の偉大な『復興』という中国の夢」で、未完の国民国家実現を目指すナショナリズムはいよいよ前面に出てきた。

    「中国の特色をもつ社会主義」を「近代西洋に対する歴史的リベンジ(復讐(ふくしゅう))」と意訳してみる必要もありそうだ。

    (大﨑雄二・法政大学社会学部教授)

    (本誌初出 中国共産党100年史 融通無碍な一党支配体制 近代西洋への「復讐」根底=大﨑雄二 20210119)

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