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日本育ちの東京五輪男子柔道パキスタン代表・シャーフセイン・シャー選手が見た「日本と五輪」の不都合な真実

日本育ちの柔道家、シャーフセイン・シャー選手。パキスタン代表として東京オリンピックに出場した
日本育ちの柔道家、シャーフセイン・シャー選手。パキスタン代表として東京オリンピックに出場した

 東京五輪の男子柔道(100キロ級)にパキスタン代表として出場したシャーフセイン・シャー選手(28歳)は、2歳の頃から暮らす“母国”日本で、数少ない「外国人アスリート」として生きてきた。スポンサー獲得のハードルの高さ、練習場所確保の難しさなど、いくつもの壁に突き当たって「見えたもの」は何だったのか。「五輪敗退」から3カ月を経て、胸の内を語った。

 シャー選手はロンドン出身。父親はソウル五輪のボクシング(ミドル級)で銅メダリストを獲得したフセイン・シャー選手、パキスタンにボクシング選手として初のメダルをもたらした「レジェンド」だ。キャリアの晩年に日本に移り住み、フセイン角海老というリングネームで活躍した。

柔道を始めたきっかけは「空手と間違えて…」

 シャー選手が柔道と出会ったのは、小学生の頃だ。きっかけは意外にも、「空手道場と間違えて柔道場に入門してしまう」というハプニングだった。

「道場に通って半年くらい経った時に、柔道をやっていたことに気付きまして…(笑)。でも『日本の伝統的なスポーツだし、せっかくだから続けてみたら?』という母親の後押しや、『受け身』のような、“相手を怪我させない”という競技のコンセプトが、僕の優しい性格には合っていた。だから、ここまで続けることができたのかなと思います」

「外国人選手が日本で練習を続けるのはとても難しい」という
「外国人選手が日本で練習を続けるのはとても難しい」という

 一方で、「外国人だから絶対に強いはず」という偏見によるプレッシャーも感じてきた。

「小さい頃から、周りにいるさまざまな五輪選手を見てきましたが、僕自身は他の選手と違って、そんなに運動神経が良くないんです。でも、『見掛け倒し』と思われたくないという気持ちが、練習を続ける源になりました」

ラマダン期間中は水を飲まずに昼間の練習に参加

 幼い頃から日本で生活し、言葉の壁こそ感じることはなかったが、選手生活では文化の違いによるさまざま苦労を強いられた。その一つが、およそ1カ月間に渡って日中の飲食が禁じられるイスラム教徒の宗教行事「ラマダン(断食月)」だ。

「イスラム教徒の選手が多い地域では、ラマダンの期間は日没後に練習を始めるんですけど、日本では、それを要求することが難しい。なので、普段は水を飲まずに昼間の練習に参加したりとか…。異なる風習の選手をどのように受け入れたらいいかわからないという理由で、なかなか高校の推薦が来なかったこともありました」

「実業団チームに入っていないと十分な活動ができない」

 イギリスや日本にルーツを持ちながら、あえてパキスタン代表として五輪に臨んだのはなぜなのか。「国が貧しく、災害や犯罪などネガティブなニュースであふれかえっているパキスタンに、良いニュースを届けたいという強い思いがあったから」なのだという。

「世界トップクラスの環境が整う日本にいながら、五輪に出場できる選手は、パキスタンでは僕しかいない」。そう意気込み、2度の五輪出場を果たした。だが、その過程では常に、外国人選手が日本で活動を続ける難しさや厳しさに直面してきた。

「日本国内では“外国人アスリート”はあまり期待されていないような風潮があって…。実業団チームへの入部やスポンサーの獲得だけでなく、練習場所の確保すらも難しい状況に直面しました。“イジメ”のようなものはありませんでしたが、その一方で、誰にも関心を持ってもらえない。心のどこかに、『ずっと一人で戦っているような雰囲気』がありました。他の在日外国人選手も、日本を拠点に競技を続けていくのは本当に大変なのではないかと思います」

 シャー選手が特に「切実な問題」と感じたのが、練習を続けるのに必要な金銭的な支援体制だ。

「日本では、柔道の選手は実業団チームに入っていないと十分な活動ができないと感じます。個人で活動するには当然、スポンサーが必要です。ただ、五輪の公式スポンサー企業以外の企業は、五輪のロゴはもちろん、『オリンピック』『五輪』といった表記すらも、なかなか使うことが難しい状況があります。企業にとっては選手を支援することによるメリットがないので、結果的に選手にスポンサーが付きにくく、活動の範囲を狭めてしまっているように思います」

 自らスポンサー探しに奔走し、大会前に300万円ほどの獲得に成功した(※資金面12社、物品提供3社)ものの、理不尽な思いが残った。

「権利関係の調整が簡単ではないことも十分にわかってはいますが、アスリートが競技に打ち込みやすい環境をもう少し整え、本来の意味での“アスリートファースト”の世界を目指してほしいという思いがあります」

「五輪に向き合うことすら難しかった」“コロナ禍”で感じた失意と不安

「東京五輪が競技生活の集大成」と意気込み、順調に調整を続けていた2020年春、“新型コロナウイルス禍”が襲い掛かる。

「練習がままならない日々を過ごすなか、担当のトレーナーさんが『生活が苦しくなった』という理由で現場を離れてしまったりして…。負の連鎖が続いて、どのように五輪に向き合えば良いかわからない時期がありました」

 練習環境の問題がさらに追い討ちをかけた。

五輪を前に、思うように練習できない時期が4カ月近く続いた
五輪を前に、思うように練習できない時期が4カ月近く続いた

「僕は小さい頃から日本で育っていますが、パキスタンの代表選手でもあるので、五輪では外国人選手という扱いになる。日本国内での拠点探しには、本当に苦労させられまして…。思うように練習できない時期が4カ月ぐらい続きました。本番直前には母国の筑波大学や、吉田秀彦さんが監督をされているパーク24の練習場をお借りして調整することができましたが、周囲の日本代表選手が五輪に向けた練習を再開するなかで、『自分だけが取り残されている』という不安な日々を過ごしました」

 つらい日々を乗り越えて迎えた東京五輪。課題だったメンタル面の弱さを強化し、万全なコンディションで挑んだものの、早い段階で3つの指導を取られ、予選敗退に終わった。

「高い集中力が維持できていて、“ゾーン”(スポーツに没頭している状態)に近いコンディションではあったんですけど、逆に落ち着きすぎてしまっていた部分があって…。もう少し緊張感を持って積極的に攻めるべきだったなと反省しています」。

 敗退直後に頭をよぎったのは、大学の先輩でもある平岡拓晃さん(ロンドン五輪柔道60キロ級銀メダリスト)に言われた、『コンディションは完璧ではない方がいい』というアドバイスだったという。

「平岡さんは、ロンドン五輪で銀メダルを獲得しているのですが、その4年前の北京五輪では、2回戦で敗れているんです。この時の平岡さんは、早い段階で反則を取られ、攻撃に転じられずに試合を終えることになってしまったんですけど、実際には『これ以上ない完璧なコンディション』で試合に臨んでいたそうで…。五輪を終えた今だからこそ、アドバイスの意味がわかるような気がします」

それでも夢は…「パキスタンと日本をつなぐ存在になること」

 今は、家族や友人と穏やかな日々を過ごしているというシャー選手。「3年後のパリ五輪には、階級を落として出場したい」と意欲を見せつつも、「もし経済的な見通しが立たなければ、そのまま競技を退くかもしれない」と、迷いを口にする。

 最近、空いた時間を利用してプログラミングを学び始めた。「近い将来」、必ず訪れる“引退”の後のセカンドキャリアの問題にも、真摯に向き合っている。

「日本とパキスタンをつなぐ架け橋になりたい」という
「日本とパキスタンをつなぐ架け橋になりたい」という

「今、僕が一番興味を持っているのは、日本とパキスタンを繋ぐビジネスです。パキスタンの革製品を日本で流通させたり、質の高いパキスタンのIT業界の人材が、日本で活躍できるような環境を整えたり…。さまざまなビジネスを徐々に形にしていきたい」

 シャー選手には、さらに大きな目標がある。

「小さい頃から“外国人”として日本で過ごしてきましたが、個人的には日本社会は、もっと“外国人”への相互理解を深め、さまざまな文化を取り入れていくべきだと思います。その方が国の発展につながりますし、もっと魅力的な国になると思うんです。柔道をいつまで続けるかはわかりませんが、柔道家であってもなくても、僕がルーツを持つ2つの国の架け橋となれるように尽力していきたいです」

取材、文・白鳥純一

シャーフセイン・シャー(Shah Hussain Shah)選手

イギリス生まれ日本育ち。練馬区立向山小学校→練馬区立貫井中学校→安田学園高校→筑波大学。27歳。

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