BOØWY結成40周年のクリスマスイブを前に元メンバー・高橋まことが語る「若かったあの日」と「今」
1980年代、彗星のごとく現れ、日本のロックシーンに革命を起こしたBOØWY。1987年12月24日の「解散宣言」まで、活動期間はわずか6年。元メンバーの一人で、ドラムを担当した高橋まことは毎年、この季節になると、いやが応でも「あの日」に引き戻される。「『今まで一番悲しいクリスマスイブだった』と、今でも言われることがある。その度に胸が痛むんだ」。バンド結成40周年の節目の年でもある今年、イブを前に高橋が語った。
introduction
1981年5月11日。当時、まだバンドに加入していなかった高橋は、新宿ロフトで行われたBOØWYのファーストライブを、観客席で見ていた。
「知人に誘われて、よくわからないままロフトに向かったら、『ドラムが抜けるらしいから、後任でお前が加入したら?』と言われて…。終演後の楽屋に出向いて、(ボーカルの)氷室京介と(ギターの)布袋寅泰に会ったんだけど、最初は2人ともおっかなそうに見えたな」
実はこの1カ月前、高橋は氷室から「一度、遊びに来ませんか」と誘いの電話を受けている。高橋も、「面白そうなバンド」だと、関心を持っていた。
ファーストライブから程なくして、スタジオに足を運んだ高橋は、『IMAGE DOWN』が収録されたカセットテープを手渡される。
「楽譜がないっていうから音に合わせて叩いたんだけど、正直、『めちゃめちゃ下手だな』と思った(苦笑)。だから俺が一度“下手”になって、みんなに合わせるように心がけた」
「小さな箱」で
この後、高橋を正式に向かい入れたBOØWYは、直後にファーストアルバム『MORAL』をリリースする。
「ジャケット写真には写っているけど、俺がドラムを叩いているのは2曲くらいだった」
高橋にとって「不完全燃焼」ともいえるファーストアルバムは、セールス面でも伸び悩む。
「『何とかライブだけはやらせてほしい』と所属事務所にお願いして、活動は続けさせてもらっていたんだけど、スタジオを使えるのは空きのある時間だけ。しばらくは特に目標があるわけでもなく、 行き当たりばったりの音楽制作を進めていました」
1983年9月には、徳間ジャパンから2枚目のアルバム『INSTANT LOVE』をリリースするものの、またしてもヒットには至らず、BOØWYは窮地に立たされる。
「それでも、たとえ小さな箱でも、必死に観客と向き合った」
地道にライブ活動を重ねるうちに、口コミでファンは増え、観客動員数は徐々に伸びていった。そしてユイ音楽工房に移籍した1985年、転機が訪れる。同年6月にリリースした3枚目のアルバム『BOØWY』が注目を集め、そこから一挙にスターへの階段を駆け上がることになる。
スターダム
「普段(ライブの時にかけてる)サングラスを外してる俺と違って、氷室と布袋はしょっちゅう声をかけられるようになって大変でしたよ。身長の高い布袋は、それでなくても目立つしね。だから休みの日には、氷室と2人で河口湖の沖でバス釣りに行ったりとか、他人の視線を避けるようにして過ごしていました。これが『売れている』ってことなんだなと思うこともあったけど、とにかく忙しくて大変でした」
1986年3月には、4枚目のアルバム『JUST A HERO』 で初のアルバムトップ10入りを果たす。後にライブアルバムとしては異例のミリオンヒットを記録する『JUST A HERO TOUR 1986』のリリースを経て、11月には5枚目の『BEAT EMOTION』を発売した。
「プリプロダクション(仮録音)もできないほどの多忙ななかで制作しました。アルバムを作ることが決まった初日にジャケット撮影を済ませて、『今日は家に帰れるのかな』と思ったら、その足でスタジオに向かうように言われて、そこから毎日レコーディングでした…。布袋が書いてくれた楽譜を見ながら、延々録音していくという感じで。あの頃は、とにかく目の前にあることをこなしていくだけで必死だったな」
突然の終わり
BOØWYの間で、最初の解散の話が出たのは、3枚目のアルバム『BOØWY』のリリースから半年後のことだ。
「最初に解散の話が出たのは、『BOØWY'S BE AMBITIOUS』の長野公演が行われた1985年12月16日でした。布袋が長野ワシントンホテルのラウンジに3人を呼び出して、『この後、俺たちは多分売れると思うから、売れたら解散しよう』と言い出したんです。俺は、『やっとマイナスからのスタートラインに立ったばかりだし。まだ先のことじゃん』と思ってたんだけど、あれよあれよという間に売れるようになって…」
その後に発売された2枚のアルバムが大ヒットを記録すると、1987年7月にリリースされた「Marionette -マリオネット-」で、シングルとしては初のオリコン1位を獲得。「売れたら解散」という言葉が、現実味を帯び始める。
「絶頂期を迎えたばかりだったし、俺は出来ることならバンドを続けていきたいと思っていたんだけど、一度は『辞める』と言ってしまった以上、潔く覚悟を決めるしかない状況だった。マリオネットの発売前に行った「PSYCHOPATH」(1987年9月)のレコーディングも、内心は『もう、これで終わりなんだな』と思いながらやってましたね」
迎えた「あの日」
ファンの間では「人気絶頂のBOØWYが解散するかもしれない」という噂が飛び交っていた。大ヒットを記録したアルバム「PSYCHOPATH」を受けて開催されたツアーは、12月24日に渋谷公会堂(当時)での最終公演を迎える。
「あの日の朝、『今日で終わりか』という気持ちで目覚めて、渋谷公会堂の入り口を間違えそうになったところまでは覚えているんだけど…。その後あまり記憶がないんだよね。ライブが始まるまでは、あまり喋らずに過ごしていたかな。開演前にスタッフに『解散』が伝えられると、それまで半信半疑だったスタッフの表情が途端に引き締まって、空気がガラリと変わった。改めてあの日の演奏を聞き直してみると、なんか知らないけどめちゃめちゃテンポが早いしね…。内心、ライブを早く終えたかったのかな。わかんないけど…」
ライブでは、氷室が「一人一人でやっていく」と、6年間のバンド活動の終わりを告げた。
「ヒムロックは、頑なに“解散”という言葉を使わなかったんだよね。本人じゃないからわからないけど、あいつも言いたくなかったのかな」
次の朝の新聞には「最後のGIGは必ずプレゼントします」という一面広告が出された。高橋はこの時点でまだ、「LAST GIGS」の開催を知らされていなかったという。
「昨日解散したばっかりなのに、『なんだこれ?』と思いました。その後しばらくしてから、春に東京ドームでライブがあることを聞きました。活動が終わったはずなのに、次のライブがあるのがその時は信じられなくて…」
その後発売された『LAST GIGS』の2日間、全10万枚のチケットは、わずか10分で完売。発売日に都心の電話回線がパンクしたことも話題になった。
それぞれの今
解散から30年以上経った今もなお、BOØWYは“伝説のバンド”として音楽史に君臨している。高橋は言う。
「俺らがミュージシャンとして真面目に音楽をやってきて、日本一になれるという快感を味わえたこと。あの時代にバンドが出来たことが何よりも財産だし、一番良かった。それに尽きるんじゃないかな」
メンバーはそれぞれ、異なる道を歩んでいる。
布袋は、2021年夏に開催されたパラリンピックの開会式に出演。個人としては初の紅白歌合戦出場も決めた。2019年にはベーシストの松井常松とともに楽曲に参加し、「昔のレコーディングを思い出して懐かしかった」と話している。
一方、氷室は耳の不調を理由に、2016年にライブ活動を引退。2020年9月にリリースされた松本孝弘(B’z)のアルバム『Bluesman』に楽曲参加したものの、引退の最終公演のMCで触れたアルバムのリリースには至っていない。
「ヒムロックは昔から、とにかくストイックだった。ストイックすぎるくらい。頭が痛くなるのが嫌だったらしくて、お酒も飲まなかったし…。『自分はこうでありたい』という理想があるんだろう。それとヒムロックは、とにかく凝り性だった。車やゴルフも、『まずは形から入る』タイプ。ボーリングをやって負けると、次のゲームではレガースやマイボールを揃えてきたり、俺にゴルフで負けた途端に、クラブセットを買ってきたり…。とにかく負けるのが嫌いなんだよね。勝負は勝つまでやる。でも一度勝ったら、『じゃあね」と言って勝ち逃げしていく(苦笑)」
「ヒムロックと最後に会ったのは、5年前くらいだと思う。その前にチャリティライブで仙台に来た時(2014年3月11日)には、久しぶりに話す機会もあってね。『元気?まだゴルフやってるの?』っていうから俺のスコアを言ったら鼻で笑われた(笑)。今も相当ストイックにゴルフをやってるんじゃないのかな」
高橋は、そんな氷室の音楽活動再開を、心待ちにしているという。
「氷室は、『ライブ活動はやらない」と言ってマイクを置いたけど、音楽を辞めたわけではないし、きっと俺たちに何らかの答えを出してくれると思う」
そして、今年67歳になる高橋自身は、新型コロナウイルス禍で苦境に立たされているライブハウスを盛り上げるイベントを開催するなど、積極的な音楽活動を続けている。
コロナ禍で、オンラインのライブ視聴やYouTubeなど、受け手のスタイルも変わりつつある。
「でも、いつ聴いても同じ音というのはやっぱりつまらない。バンドは生き物だし、生の音楽だからこそ楽しめる“グルーブ感”や、音楽との“一期一会”は、これからもなくならないんじゃないかな」
取材・文 白鳥純一