小説 高橋是清 第181話 金解禁論=板谷敏彦
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(前号まで)
米国に追随して金本位制を停止した日本は、復帰のチャンスをうかがうが、震災や恐慌に見舞われ先延ばしされてきた。昭和恐慌が収まり、ようやく日本は金解禁の方針を内外に示す。
第一次世界大戦がいまだ終わらぬ大正6(1917)年9月、最後まで金本位制を維持していた米国が金輸出を禁止すると日本もそれに追随した。1897年以来の金本位制を停止したのである。
この後日本で金解禁(金輸出入の解禁)が初めて検討すべき課題となったのは1919年に米国が金解禁をして金本位制に復帰した時だった。
以下、ドル・円の図を見ながら読んでもらいたい。
復帰まで
◆第21代高橋是清蔵相の時代
米国と共に金本位制を停止したのであるから、米国が復帰した以上、日本も検討するのは当然であった。
この時期円はドルに対して強含み、この時点で日本は4億6000万円の内地正貨と13億円という巨額の在外正貨を保有していたので、当時の日銀総裁井上準之助は「当然金の輸出解禁をなすべきもの」と判断していた。
原敬首相と蔵相の是清はパリ講和会議後の国際的な中国の門戸開放要求、日本の満州での特殊権益に対するネガティブな米国世論、日米英仏四国の対華新借款団の組成を通じての列強の中国への積極的投資姿勢等を勘案し、いずれ日本は大陸投資の主役となるための巨額の正貨が必要になると考えた。
また在外正貨はいざ事があると使えなくなる恐れがあるので、今は極力内地正貨の備蓄に務めるべきと金解禁を明確に否定した。
しかし1920年に日本の戦後の反動恐慌によって円は100円当たり48ドルに下落、円安は金輸出禁止に原因があるという意見が多くなった。
是清は大蔵省事務当局に極秘に金解禁を研究させ、「国際収支の見通しがつき次第金解禁すべき」という結論を得た。この後大蔵省では事務レベルで金解禁問題が検討され始めた。しかしこの時期の日本の在外正貨は出るばかり、金解禁の条件である国際収支の見通しはつかなかった。
◆第22代市来乙彦蔵相の時代
物価が騰貴し、その原因を金解禁に求める動きがあり、世上では金解禁論がやかましくなったが、市来はこう述べている。
「金の輸出禁止は、元来戦時に採用せられたる変態的処置であって、なるべく速やかにこれを解除して経済の常道に復せしむべきは論をまたないが、各国の政策も定まらず、我が国の経済も充分の安定を得ていないことから、今は金解禁の時ではない」
1923年に入るとドル・円は49ドルにまで戻してきたが、加藤友三郎首相の急逝、そして9月には関東大震災と金解禁どころではなくなってしまった。
◆第25代浜口雄幸蔵相の時代
関東大震災復興に伴う輸入増によってドル・円は下落、1924年12月には月次で38・5ドルをつけている。為替相場の乱調からむしろ金解禁論は為替相場を安定させるのではないかと盛んになったが、浜口は為替相場が乱高下している時の金解禁は貿易業者に損失を与えかねないと、解禁即行の意図がないことを表明している。
蔵相として金解禁は財政経済全般の準備態勢を整備して実行に移るべきで、その準備工作の基本は財政の緊縮と財界の整…
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週刊エコノミスト
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