「身を切られるほど痛く、恥ずかしい」ロシア文学の大家、沼野充義氏の嘆き 「ウクライナ戦争はロシアの大失敗に終わる」=前編
「ウクライナ人は今後何十年間も、ロシアを絶対に許さないだろう」。ウクライナ侵攻という蛮行に踏み切ったプーチン氏をロシア人はなぜ大統領に選ぶのか。ロシア文学の第一人者、沼野充義氏にロシア社会と文化の背景を聞いた。(聞き手=桑子かつ代・編集部)>>>後編はこちら
―― ウクライナ侵攻が長期化し、ロシア国内での反戦デモやプーチン大統領批判も続いている。ロシア文学の専門家として、どのように受け止めているか。
沼野 あまりにも冷酷でひどい、プロパガンダ(政治的な意図に基づく宣伝工作)が度を超している。プーチン政権に都合が悪いことを全部ねじ曲げて虚偽と決めつけ、事実と正反対のことを終始言い続けている。今回の情報統制をみていると、昔のソ連時代に逆戻りしたように感じる。暗たんたる思いでいる。
<沼野充義氏は3月に自身のツイッターで、ロシアのウクライナ侵攻について「自分の一部が殺されてしまったような痛みと悲しみを感じる」と投稿。プーチン氏のプロパガンダは、大量虐殺を善行に仕立てる言葉の大量虐殺であり、ロシア文学者として「身を切られるほど痛く、恥ずかしい」としている>
―― ロシアでは昔から言論統制があるが、今回は何が違うのか。
沼野 もともと18世紀初めから1917年のロシア革命までの帝政ロシアでも、皇帝のもとに厳しい言論統制が行われ、今に始まったことではない。
2014年のクリミア侵攻の時も言論統制はあった。それでもSNSでリベラル派が批判的なことを言える余地があった。当時、ロシアの人気作家のボリス・アクーニン氏が政権批判を行い、これに対して売国奴と罵る大きな看板が街中に立てられ、辛辣なバッシングを受けて英国に脱出した。政府は表立った抑圧はしないが、裏でリベラル派を締め付けるという形だった。
しかし、今のロシア政府は度を超している。政府が一般の市民を力づくで押さえ込む恐ろしさだ。それでもボリショイ劇場の音楽監督が辞任という形で抗議したり、人々の間でSNSを通じてプロパガンダを信じるなという発信が広がっている。ロシアの映画監督のキリル・セレブレニコフ氏、ロシア生まれでキエフ在住、ウクライナ国籍のロシア語作家(ウクライナ・ペン会長)のアンドレイ・クルコフ氏なども発信を続けている。
―― ソ連時代でも反体制を訴える人たちがいた。
沼野 ただ、ソ連時代を知っている私たちとしては、ソ連時代の反体制知識人は社会全体から見れば、ほんの一握りだった。普通の人たちからは、あれは頭がおかしい人たちとか言われて、共感の対象ではなかった。
今はこんな状況なので、政府は徹底的に情報統制、報道統制をしているけれども、ロシアの市民の中にもこれはおかしいとうすうす思っている人は多い。SNSなどを駆使できる若者は政府が情報を遮断しても外国からの情報にアクセスするし、若い人の中には英語ができ、英語の情報を直接入手している人も多い。
ウクライナは「重荷」に
―― ロシアにとってウクライナは兄弟のような国と言われていた。
沼野 ウクライナには、ロシア語を話す人が多くいて、ウクライナ国籍でありながら、民族的・文化的にはロシアとのつながりを強く感じている人も多い。ロシア語とウクライナ語が互いに近い言語で、バイリンガルとして使いこなす人もたくさんいる。国土が東西に長く、地域により多様性がある。考え方がヨーロッパ志向でロシアに反感を感じる人もいる。全体としてまとまりにくい国だった。
しかし、ロシアの侵攻でウクライナ人の愛国心は非常に盛り上がり、反ロシア感情が過去にないくらい高まっている。ロシア語を母語とする住民も、必ずしもロシアに帰属したいとは思っていない。東部のドネツク州やルガンスク州だけでなく、ハリコフ州もそうだ。ハリコフ州はもともと住民の大部分がロシア語を話す。ソ連時代にはハリコフ州はソ連邦の構成共和国のウクライナというよりも、ソ連だと思っている人も多かったくらいだ。しかし、今はハリコフ州の人々もプーチン大統領は許せないと思っている。ソ連時代からの草分けロックスターのアンドレイ・マカレービッチ氏は、SNSで「プーチンはウクライナを分断しようとして実はウクライナ人を結束させてしまった」と投稿している。
―― 軍事的な決着がどうなるか、全く見えない。
沼野 すぐに決着がつかないとしても、ロシアは巨大な負担を抱えこむことになった。仮にロシアが軍事的に勝利して、ウクライナに傀儡政権を設立するとする。過去に親ロ指導者だったビクトル・ヤヌコビッチ氏を再び据えたり、あるいは大量の軍隊を駐留させて非常事態を続けるようになると、反対勢力がウクライナ国内でゲリラ戦を続けるだろう。そうなれば今後10~15年は混乱した状況になる。
また、ロシアがウクライナ全体を制圧するとしたら、足元で投入している15万人の兵力どころではなく、50万人が必要という専門家の話もある。今後、中長期的にロシアはウクライナという非常に不安定な要素を抱え込まなければならない。この泥沼から抜け出しようがなくなることが、今から見えている。キエフが陥落したとしても、ロシアの勝利には絶対にならない。ウクライナ人は今後何十年間も、ロシアを絶対に許さないだろう。
経済制裁は意に介さない
―― 戦況は当初ロシアが圧倒的優位とされていたが、ウクライナ軍の反撃が続いている。
沼野 私はプーチン氏が仕掛けた今回の戦争は基本的に大失敗に終わると思う。プーチン政権の没落、そしてロシアが世界の中で相手にされない二等国に引きずり落とされることの始まりになったとみている。当初ロシアが想定していた軍事力によるキエフ陥落と武力支配が、今後2週間なのか1カ月なのか分からないが、たとえそれが出来たとしても同じことだ。
―― 経済制裁の効果はあるのだろうか。
沼野 NATO(北大西洋条約機構)や米国が軍事力で直接ロシアを阻止しない限り、どんな経済制裁をしてもプーチン氏は意に介さず、振り上げた拳を下ろさないだろう。
―― ウクライナのゼレンスキー大統領は圧倒的に高い支持率だ。
沼野 各種マスコミも盛んに報道しているが、ゼレンスキー氏の支持率は91%だという。世論調査の数字がどこまで正しいのかというのもあるが、それでも高い数字だ。プーチン氏は侵攻前、ゼレンスキー政権の基盤が脆弱とみて、軍事的に攻め込めば簡単に勝てると思い込んでいた。ウクライナ人がそんなに愛国心で結束するとはプーチン氏は予想していなかったと思う。
トルストイとソルジェニーツィン
―― トルストイやプーシキンなど19世紀のロシアの文豪や詩人は政権を恐れず、公然と戦争批判や抗議をした。
沼野 19世紀のロシア文学はドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフ、チェーホフなど偉大な作家が次々に登場した。今のロシア文学は、残念ながら世界の他の国と同じで、圧倒的な存在力を持つような作家はいなくなった。
トルストイは第二の政府と言われるくらい、圧倒的な精神的権威を持っていた。日露戦争勃発後の1904年、戦争批判の激烈な論文「思い直せ」を書き、ロシア皇帝と日本の天皇に送った。プーシキンも帝政批判をして流刑された。ロシアで詩人であることは命がけだ。
恐らく影響力がある最後の作家は、20世紀のロシアを代表する大作家、ソルジェニーツィンだった。もともと反体制作家で、共産党政権を厳しく批判し、ペン1本で戦った恐るべき力のある人だ。亡命していた米国からソ連崩壊後、94年に帰国した。帰国後は、強いロシアを掲げるプーチン政権に祭り上げられたところがあり、国語の教科書に文章が採用された。ソ連時代の迫害からは考えられない状況だった。
―― ソルジェニーツィンはスラブ系民族の連帯を主張した。
沼野 ソ連はもともと15の民族共和国で構成される連邦国家だった。ソ連の崩壊直前の混乱期だった90年、ソルジェニーツィンは東スラブ民族であったウクライナ、ベラルーシ、ロシアの3つは特に緊密な繋がりを持つ民族なので別れるべきではないと主張する論文「甦れ、わがロシアよ」を発表している。東スラブ民族の中でもロシア人が中心になって国をまとめていくべきだという考えの民族的傾向が強かった。
このような立場は、プーチン大統領にも現代ロシアの民族主義者にも共通したもので、民族主義的な考え方の源泉になっている。今のウクライナ侵攻の予言的な面もある。>>>後編はこちら
(略歴)ぬまの みつよし 1954年生まれ。77年東京大学教養学部卒業、79年同大学院人文科学研究科(ロシア文学専攻)修士、84年米ハーバード大学修士、85年東京大学大学院博士課程単位取得退学。東京大学助教授、教授。名古屋外国語大学・教授。東京大学名誉教授。ロシア東欧文学研究者、文芸評論家、翻訳家。元日本ロシア文学会会長。著書に『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』(講談社)など。