小説 高橋是清 第190話 浜口遭難=板谷敏彦
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(前号まで)
国際協調を旗印に金解禁と緊縮財政を推進する日本政府はロンドン海軍軍縮条約を批准するが、統帥権干犯問題などの混乱を生み、浜口首相は白昼の東京駅で襲撃される。
昭和5(1930)年11月14日、浜口雄幸首相は東京駅のホームで至近距離から銃で撃たれた。
秘書官と護衛官らはすぐさま倒れた浜口を抱え上げると、地下道を100メートルほど運んで駅長室のソファへ寝かせた。
弾丸は浜口の下腹部内に留まり出血もあったが、同時に内出血を起こし内臓を圧迫し始めていた。
駆けつけた鉄道病院の医師が、
「総理、大変なことに」
とつぶやくと、浜口は、「男子の本懐です」と答えた。
浜口はロンドン海軍軍縮条約を受け入れる時に、政治家としてすでに死を賭していたのである。これがそのまま城山三郎による浜口の伝記小説となった。
浜口は駅で応急処置を施されると、救急車で東大病院へと移送されそこで緊急手術を受けた。小腸の傷は縫合され止血されたが弾丸の摘出は困難だと見送られた。しかし、なんとか一命は取り留めた。
陛下の統帥権
21歳だった犯人は右翼団体愛国社社員の佐郷屋留雄。
現行犯で逮捕された佐郷屋は、
「浜口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」と開き直ったが、取り調べた刑事の、
「おまえの言う統帥権干犯とは何か」という質問には答えられなかった。
統帥権干犯問題をここで今一度整理しておこう。帝国憲法第11条に「天皇は陸海軍を統帥す」とある、これが「統帥大権」と呼ばれる作戦用兵に関するもので、軍部が帷幄上奏(いあくじょうそう)し内閣が関与することはない。
一方で第12条には「天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む」とある。これは「編制大権」と呼ばれ、それまでの憲法解釈では、国家予算が関係するので内閣が補弼(ほひつ)する事項となっていた。
すなわち「統帥大権」は「編制大権」にまで及ばないと理解されていたのである。
ところがロンドン海軍軍縮条約問題では、海軍内部の後の「艦隊派」が立憲民政党追い落としを図る立憲政友会(以下政友会)と組んで、「編制大権」も「統帥大権」に含まれると憲法解釈をねじ曲げようとしてきたのである。
軍部が「編制大権」に干犯しようとしたにもかかわらず、あたかも浜口が「統帥大権」に干犯したと主張したのである。これが「統帥権干犯問題」である。
海軍はこの後海軍省にあった編制業務を軍令部に移し内閣の影響を弱めようとする。
軍部は正論を語る当時の憲法解釈の権威、美濃部達吉東大教授を疎ましく思うようになるのである。
金解禁と軍縮
浜口が政権を獲得した時、世界の先進国はこぞって金本位制に復帰したというのに、日本だけが取り残されていた。不安定な為替に実業界からも金解禁の強い要望があった。
浜口は宿願の金解禁を実行し、ロンドン海軍軍縮条約を実現させた。昭和5年の日本の軍事予算は国家予算の28%、同時期の米国は18%、英国は13%であった。
軍縮は経済規模の小さい国家にこそ有利に働くはずである。第一次世界大戦後の1920年以降、不況の中にあった日本にとって軍縮は果たさねばならない課題だったのだ。
しかしその一方で軍縮条約は帝国海軍内部を条約派と艦隊派に分裂させ、「統帥権干犯」という新しいスローガンを生み出し、海軍のみならず国内世論を分断してゆくことになった。
この時期の是清は政友会の長老ではあるが、実質は引退状態である。赤坂表町の屋敷と葉山の別荘を行き来し、爵位を譲った長男是賢の相談にのり、無線技師である四男是彰の活躍を聞き、孫ほど年の違う娘たちと語らい合う平和な毎日であっただろう。
そして是清と鈴木某という芸者の間に生まれ、高橋本家のほうに養子として入った高橋利一も、慶応義塾に入学して学友たちを家へと連れてくるようになった。利一を何ら分け隔てなく実子として…
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週刊エコノミスト
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