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小説 高橋是清 第189話 統帥権干犯問題=板谷敏彦

(前号まで)

 金解禁当日、日本政府が祝賀気分に沸く一方で、是清は金解禁の行方に不吉なものを感じている。勢いに乗る浜口内閣は衆議院を解散、総選挙に圧勝する。

 昭和5(1930)年に入ると、ちょうど高橋是清内閣の時の大正11(1922)年に締結されたワシントン海軍軍縮条約も8年が経過し更新が必要な時期となった(第152話)。条約では主力艦である戦艦の保有比率を英5米5日3と決め、以降10年間の戦艦の新造を禁じていた。

 これを更新すると同時に主力艦だけではなく巡洋艦以下の補助艦に関しても規制しようというのがロンドン海軍軍縮条約である。1月から4月まで日米英仏伊の5カ国が参加して開催された。

 日本の全権は元首相の若槻礼次郎、海軍大臣の財部彪ら4名、米国はスティムソン国務長官、英国はマクドナルド首相らが全権を務めた。

 国際協調を看板に金解禁と緊縮政策を推し進める浜口雄幸内閣にとって、軍縮はとても重要な意味を持っていた。

ワシントン海軍軍縮条約

「なぜ仮想敵国である米国に軍備を制限されねばならないのか、6割では太平洋を挟んで対峙(たいじ)する米国とは戦えない」

 ワシントン会議における対米6割は多くの海軍軍人の間に不満を鬱積させていた。経済規模の小さな日本から見れば、条約にはむしろ米国の戦力を制限できるというメリットがあることを彼らは是認しなかった。

 日本代表は(1)補助艦は対米7割、(2)大型巡洋艦も対米7割、(3)潜水艦は現有のまま、の3大原則の訓令をもって会議に臨んだが、米国は米国で議会からの圧力がある、ワシントン条約同様に対米6割に固執して交渉は難航した。

 若槻らは米国と粘り強く交渉し、全体で対米6割9分7厘5毛の妥協案にまでこぎつけると、3月14日には、これ以上の交渉は困難であると、政府の訓令をあおぐ電報を打った。

 財部海相を代表に送っている海軍省次官山梨勝之進中将、堀悌吉(ていきち)少将らは妥協案を承服したが、陸軍の参謀本部にあたる海軍軍令部がこれに猛反発した。総括的にはほぼ7割確保に見えるが、大型巡洋艦は6割2厘3毛しかなかったからである。

 軍令部長の加藤寛治大将、軍令部次長の末次信正中将らは、海軍大御所の東郷平八郎らを味方につけると、この戦力では国防に責任を持てないと、機密であるはずの妥協案の数字を新聞記者に漏らし、海軍は米国案に反対であると書かせた。

 前海相の岡田啓介大将が「足りない戦力は航空機や制限外の艦艇で補えばよい」と両者の仲介に入ると、3月27日、浜口は官邸をたずねた岡田と加藤に対して、ロンドンからの妥協案を受け入れることを伝えたのである。

 同日、浜口は昭和天皇に上奏すると、「早くまとめるよう」にと励まされた。

 4月1日に政府は妥協案受け入れを閣議決定したが、翌2日、加藤軍令部長は政府方針に反して昭和天皇に帷幄上奏(いあくじょうそう)した。

「米国の提案は実に帝国海軍の作戦上、重大なる欠陥を生ずる恐るべき内容を包含する」

 陸軍参謀本部と海軍軍令部は軍事機密や作戦用兵に関して天皇に直接意見を言うことができるのだ。昭和天皇は黙って聞いていたが、加藤は記者クラブで政府方針に反対であると声明を発した。

 帝国憲法第11条「天皇は陸海軍を統帥す」、第12条に「天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む」とある。加藤は兵力量の決定は統帥事項であるから条約には軍令部の同意が必要であると主張した。

 一方浜口内閣は「第11条の統帥大権は第12条が規定する内閣の輔弼(ほひつ)を要する編制大権にまで及ぶものではない」と反論したのである。これはアカデミズムを代表する東大美…

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