小説 高橋是清 第188話 第17回総選挙=板谷敏彦
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(前号まで)
ニューヨーク市場の「暗黒の木曜日」が勃発、株価暴落が大恐慌になるとは誰もが予見できず、日本政府は金解禁を発表、国内の有力銀行団も支持を表明する。
昭和4(1929)年の晩秋、金解禁のスケジュールが決まった頃、是清は訪ねてきた2人の著名な新聞記者に対してこう言った。
「これは絶対に記事にしてもらっては困るが、金解禁はきっと失敗する。若槻礼次郎、浜口雄幸、井上準之助の3君とも頭の良い秀才だが、あの人々は2に2を足すと4とのみ答えるが、世の中のことは常に2に2を足して4とはならぬものである」
是清は為替の水準を無理やり旧平価に合わせたところで、国際収支の状況からみて金解禁は円を過大評価しており無理だと考えていた。数字を合わせれば良いというものではない、為替水準はさまざまな要素の結果として導き出される数字なのだ。相場を人為的に動かすのではなく、周囲の諸条件を改善すべきなのである。
是清は若い頃から米や株式市場にかかわり、相場は決して思惑通りに動かないことを知った。また日露戦争の外債募集では価格の変動に悩まされた。ロシアが資金を集められなくなる現場も見た。そうした是清ならではの相場に対する「恐れ」があったのだろう。是清は金解禁の行方を心配していた。
金解禁当日
昭和5(1930)年1月11日、大安吉日の土曜日、金解禁当日の正金対米為替売建値は100円=49・25ドル、正金は14日から金輸出点ぎりぎりの49・375ドルへ引き上げた。
金輸出点ぎりぎりとは、横浜正金の店頭で円とドルを交換するよりも、日銀で円を金に交換後、ニューヨーク連銀窓口にまで船で現送(コストは100円当たり50セント)して旧平価(100円=49・846ドル)で金をドルに換えた方が有利になるレートである。したがって売建値としては49・375が旧平価の水準に相当する。
このレートは約2年後の昭和6年12月12日に、蔵相に就任した是清が金輸出再禁止を発令する前日まで固定されて続くことになる。
さて、金解禁のこの記念すべき日、浜口の首相官邸では朝からシャンパンを抜いて乾杯した。井上がいる蔵相官邸には祝い客が集まり、多くの祝電が届く。午後からは老舗洋食レストラン中央亭で立憲民政党(以下民政党)の金輸出解禁祝賀会が催された。さらにその後には大蔵省での祝賀会が控えている。
巷(ちまた)では金解禁をよくわからないまま、便乗の金解禁記念・大売り出しなどが行われ、本当にお祭り騒ぎだったのだ。
紙幣と金との交換が可能になったこの日、金との兌換(だかん)(交換)を望む者は日本銀行の窓口へと行った。日銀本店には2300人、大阪支店には600人が請求にやってきたが、ほとんどが興味本位の人たちだった。
金解禁は緊縮財政を実行し、政府も民間も節約に励み、貿易収支を改善し、為替水準を目標値に近づけて実行に入るまでが大仕事だった。確かに各団体が慰労の意味で祝賀会を催すのは理解できるが、問題はここで妙な達成感を持ってしまったことではなかったか、我らは金解禁を成し遂げたと。
深井英五が心配していたように金解禁は経済正常化への端緒でしかない。大変なのはこれからなのだ、そういう意味では浜口も井上も、財界も流行に敏感な一部の国民も調子に乗っていたに違いない。しかし、いずれにせよ為替レートは固定されたのである。
昭和4年末に開催された第57回帝国議会は、年末年始の休会を経て再開されたが、浜口は再開から間もない1月21日に衆議院を解散させた。
当時、衆議院総数466議席の中、立憲政友会(以下政友会)237議席に対して、与党民政党…
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週刊エコノミスト
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