小説 高橋是清 第187話 金解禁=板谷敏彦
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ニューヨーク市場の「暗黒の木曜日」が勃発する中、日本政府は旧平価での金解禁の実施を決定、米英とのクレジット契約が成立し、金解禁に関する大蔵省令を公布する。
昭和4(1929)年6月29日、立憲政友会田中義一内閣倒壊間際、横浜正金銀行が提供する対米電信売建値、すなわちドル・円相場は100円=43・75ドルだった。
当時店頭取引による市中相場もあったが、現在からさかのぼって東京での日々の記録を参照するにはこの為替データが最良である。
第一次世界大戦後、一時は50ドルを超えていた円も関東大震災で38・5ドルまで売られ、復興に伴い再び49ドル近くまで戻したが、またもや昭和金融恐慌で売られてしまったのだ。
円がこうした低位にあるからこそ、田中内閣の三土忠造大蔵大臣は局面打開のために金解禁を考えたのであり、財界人もまた賛同していたのである。しかし同時にあまりに低位だからこそ三土は実現をあきらめたのだった。
深井英五の懸念
7月2日に金解禁を、それをそれこそ金看板に立憲民政党浜口雄幸内閣が成立すると、浜口や井上準之助大蔵大臣は昔の旧平価100円=49・846ドルでの金解禁をめざした。
積極財政の立憲政友会内閣の三土では実行は困難だが、緊縮財政の立憲民政党、浜口と井上のコンビであればできると自信を持っていたのである。為替市場はこの決意を受けて円高に振れることになった。
緊縮策をとり、物価を下げ、輸入を減らし、外貨の流出を防いで円高にもっていく。我慢をして金解禁が実現した向こうには好景気が待っている。
浜口と井上は冊子や全国での講演会を通じて節約の一大キャンペーンを張った。また内務省を中心に公私経済緊縮委員会を組織して、消費節約、貯蓄奨励の全国的運動が展開された。
この中間報告会に出席していた日銀副総裁深井英五は、各地に講演に出向いた委員たちの中に金解禁による好景気の出現を説いて喝采を浴びたという報告が多いことを心配して一言発した。
「そうした物言いでは実施後に国民を失望させてしまいます。金解禁は将来にわたり経済を順調ならしめる端緒でしかありません」
深井は、金解禁は成立後も一時的にはむしろ不景気を忍ばねばならぬのに委員でさえ事態をよく理解できないと不安になったのである。
現地10月24日のニューヨーク市場の「暗黒の木曜日」。NY連銀はそれまで、株式投機の熱狂を抑えるために公定歩合を上げて資金を株式から金利商品へと誘導していたが、この大暴落をきっかけに、今度は逆に公定歩合を引き下げ始めた。
米国金利の上昇はドルが国際市場の資金を呼び込み、ドル高になりやすい。つまり井上がやっている金解禁のための円高政策の障害となるものだが、米国の大暴落が金利低下を促して、皮肉にも井上に味方したのである。
何故皮肉なのか? この大暴落は、世界大恐慌へと連なり、結局日本の、井上の金解禁を失敗へと導くからである。
出発のあいさつに赤坂表町の是清の家を訪問した津島寿一海外駐箚(ちゅうさつ)財務官は、11月初めに現地入りすると暴落後のニューヨークでモルガン商会、トーマス・ラモントらと資金調達の交渉を始めた。金解禁の際に必要となるかもしれないドル資金のクレジット枠の確保である。
彼らもまた、この株の大暴落が大恐慌になるとは予見できなかった。積極的に日本の金解禁を支援するつもりである。
「イノウエは旧平価で金解禁をやろうとしているのか?」
「そうです」
津島はラモントに答えた。
「ご存じのように、すでに英国の例がある。英国は旧平価での金解禁に苦労している。
その点フランスは実勢のフラン相場に…
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週刊エコノミスト
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