小説 高橋是清 第192話 軍の政治関与=板谷敏彦
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(前号まで)
与党民政党は金解禁を実行し、衆議院選挙に勝利、ロンドン海軍軍縮条約締結を実現したが、世界経済は米国株式市場が大暴落、昭和恐慌が始まっていた。
統帥権干犯問題は、内閣が海軍軍令部の反対にもかかわらず海軍の兵力量を決めた、それが天皇の持つ統帥大権(作戦用兵)を犯したという理屈であった。
これは見方を変えればその逆も真で、海軍軍令部が本来は内閣が天皇を補弼(ほひつ)するはずの国家予算決定に直結する編制大権(兵力量の決定など軍事行政)を犯したともいえる。
英国海軍を範とする海軍にはサイレント・ネイビー(沈黙の海軍)という政治関与を否定する伝統があったはずである。これは大言壮語せずに、国を守る時には、充分に任務を果たすという意味である。統帥権干犯問題は、結果として機会主義的な立憲政友会を勢いづかせ、国際協調を重要視する立憲民政党をたたくことになった。
一夕会
明治15(1882)年に発布された「軍人勅諭」には「世論に惑わず政治に拘(かかわ)らず」と軍人の政治活動への関与を禁じる項目がある。これは当時盛り上がり始めた自由民権運動と軍人を隔離するための処置であったが、軍人は政治にはかかわらないというのは、当時すでに英米などの民主主義国家の共通項であった。シビリアンコントロールである。
日露戦争は元老山県有朋と伊藤博文の下、陸軍出身の桂太郎内閣が遂行した。当時政治と軍事は一体化していたのである。
大正デモクラシーを経て、普通選挙が行われる政党政治の時代になると、事情は変わってくる。軍とつながりがない政党政治家が首相となり内閣を率い編制大権を握ることになる。
政権と兵権の分離、軍政事項(軍事行政)は陸海軍大臣が閣員となって内閣が執行するが、陸軍参謀本部や海軍軍令部が担う軍令(作戦用兵)は統帥権によって政治から独立している。
この独立は本来、軍の政治的中立性を確保し、政治家による軍事行動への干渉をなくし、軍人の政治不関与を保証するものであったはずだ。
しかるにロンドン海軍軍縮条約締結のあたりから軍が政治に深く関与してくる事例が増えてくる。
* * *
欧州大戦終了後の大正10(1921)年、欧州に派遣されていた陸軍士官学校(陸士)16期の永田鉄山以下若手エリート将校たち3人の少佐は、ドイツの保養地バーデン・バーデンで会合した。(第149話)
彼らは国家あげての総力戦となった欧州大戦の実情を見聞し日本陸軍には改革が必要だと問題意識を共有したのである。
あれから彼らは陸軍大学卒業順位上位の省部(陸軍省と参謀本部)のトップエリートたちを集めて二葉会という政策研究会を結成し、これがさらに若手が結集した木曜会と合流して、昭和4(1929)年5月には両会を横断した一夕(いっせき)会ができあがった。会員は陸士14期から25期までの40名ほどである。
一夕会は結成時に、(1)陸軍人事を刷新、(2)満蒙問題を解決、(3)荒木貞夫(陸士9期)、真崎甚三郎(同9期)、林銑十郎(同8期)の3名をもり立て、陸軍を改革する、の3項目を確認している。
彼らは年功序列の秩序の中で間違いなく出世して地位も次第に向上してゆく。現状の政治形態においても指導力を発揮することは可能で、軍事革命などは必要としなかった。
メンバーの一人、東条英機(同17期)は木曜会で満蒙領有方針を発表し、石原莞爾(同21期)は日本は中国大陸の資源を活用すべきと「我が国防方針」を発表した。戦争ありきの国家観である。
陸軍エリートは英米協調の「幣原外交」を標榜(ひょうぼう)する立憲民政党浜口内閣とは全く考え方が違っていた。満蒙問題の解決はあくまで軍事力による支配である。
大戦景気が終わった1920年のバブル崩壊以降連綿と続く景気の低迷、現代風にいうならば失われた10年である。物価下落に疲弊し…
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週刊エコノミスト
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