小説 高橋是清 第193話 浜口の死=板谷敏彦
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(前号まで)
浜口首相の容体はすぐれず、議会が統帥権干犯問題で揺れる中、陸軍参謀らがクーデターをもくろむ。計画は頓挫したものの事件は隠蔽され、軍の政治関与が強まっていく。
昭和5(1930)年12月24日召集、翌年3月27日まで開催された第59回帝国議会は、入院中の浜口雄幸首相に代わって外相の幣原喜重郎が代理をつとめた。
浜口内閣は発足時、蔵相には井上準之助、外相には幣原など党外の人材に加わってもらった経緯がある。井上は立憲民政党(以下民政党)に入党したが、幣原はしなかった。
党内はもともと内相安達謙蔵と鉄道相江木翼(たすく)の対立を抱えていたが、浜口の求心力で何とか持ちこたえていたのだった。それだけに、党員ではない幣原の首班代行には不満が噴出した。
昭和6年2月3日、幣原がロンドン海軍軍縮条約に関する答弁で、天皇の批准を根拠に国防は大丈夫であるとする発言があり、これを立憲政友会(以下政友会)が国防を天皇の責任にするとは何ごとかと追及し、審議が2週間ほど停止したことはすでに述べた(第190話)。
この時は幣原が発言を取り消して一応の収まりを見せたが、民政党、政友会両党の院外団が議場で流血の大乱闘を演じるなど、ただでさえ極度の不景気によって不満が鬱積していた国民の政党政治への信頼を大きく傷つけることになった。
「そんなことよりも、政治家はもっとやるべきことがあるだろう」というのだ。
しかし政友会としては追及不十分である。今度は入院中の首相浜口の不在を責めた。首相としての業務ができないのであれば辞職せよと迫ったのである。
「首相、答弁せよ!」
2月19日、追い詰められた幣原は浜口の3月上旬の議会への出席を約束、浜口はまだ回復していなかったがそれに合わせてリハビリに励んだ。
10日に閣議に出席すると、午後は衆議院本会議場に入った。弾丸が身体に入ったままである。議員たちは回復したかに見える浜口の姿を見て与野党問わず総立ちの拍手で迎えた。
浜口は議会の欠席をわびるあいさつをし、野党政友会犬養毅総裁はねぎらいの言葉で応えた。
しかしもう浜口の身体はボロボロだった。
後でわかったことだが放線菌が脾臓(ひぞう)付近で異常増殖して硬結を作り、胃底部を圧迫し腸を狭窄(きょうさく)していたのだった。
11日、政友会島田俊雄議員が質問に立ったが、浜口は衰弱して立ち上がれず答弁ができない。
それを見た島田は、
「かかる健康状態で議会に臨まれることは、野党としてははなはだ迷惑至極である」
と言い切った。
「首相、答弁せよ!」
政友会側から痛烈なヤジが飛ぶが、結局浜口は立てず、翌日から再び議会を欠席したのである。
「わずか2日で、早くも休養」
新聞は書き立てた。
浜口は18日に再び登院するが、とうてい首相の責務を果たせるものではなかった。
浜口は4月4日に再入院すると手術をして人工肛門を作った。もうここまでである。浜口内閣は4月13日に総辞職した。
宇垣一成陸相が心変わりして3月事件となるクーデターを止めたのは、こうした状況下で自分が後継の一人と目されていたからである。確かに新聞社が挙げる後継首相候補者の中に宇垣の名前があった。
しかし政権を維持したい民政党幹部や、金解禁を支持し協調外交を願う元老重臣方面からの意向もあって、昭和6(1931)年4月14日、民政党の若槻礼次郎に首相の大命降下があった。
1926年1月の加藤高明死去の後を受けての第25代が第1次若槻内閣であった。若槻が昭和金融恐慌で退陣後の第26代が政友会田中義一、第27代が民政党の浜口で、若槻は第28代として再び首相の座についたのである。
石橋湛山は『東洋経済新報』4月18日号の社説「近来の世相ただ事ならず」の中で、首相を辞職せず国難の中で議会無視の状況を作った浜口を「罪悪」であると強く非難した。職務を全うできないの…
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週刊エコノミスト
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