小説 高橋是清 第194話 柳条湖事件=板谷敏彦
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(前号まで)
浜口首相は復帰できず若槻礼次郎内閣が発足する。長引く不況の中、金解禁の成果を出せず、国際協調的な外交に対する国民の不信も収まらず、軍部の力が強まっていく。
昭和6(1931)年4月中旬、浜口雄幸首相が再入院して、若槻礼次郎内閣が誕生した頃、是清は築地の南胃腸病院に入院した。
昨年の冬ごろから身体の不調を訴えていたのだが、とうとうアメーバ赤痢と診断されて、2カ月ほどの入院となったのである。
6月7日、明日が退院という日に東京朝日新聞社の記者が病室を訪ねている。
大分長らくご病気で?
「いやいや、良くなったよ、入院した頃は12貫(45キログラム)まで体重が落ちてね。2、3日前にひげを剃(そ)ってもらったから、今日はまだ見られるだろう」
あごひげのあたりをなでながら是清は続ける。
「私はね、若い頃は24貫(90キログラム)ほどあった、原内閣の頃だってまだ20貫はあったものだ」
満76歳、随分回復はしているようには見えるが、それでもすっかり老人の風貌になった。
入院なんてお珍しいと記者が振ると、
「これは2度目の入院だ。最初は日銀副総裁の頃だからもう30年以上も昔の話になるかな。赤坂見附で馬に蹴られてね。左手を折ったのだ。左手は今でもあまり良くないのだよ」
退院したら何をしたいですか?
「酒は昔好きだったが、去年の夏ごろからどうにもまずくなってね、まあそれも良いとむしろ喜んでいたのだが、今度の入院でまた飲みたくなってしまったのだよ。これはイカンな」
記者は「かはる面影 これがかつての達磨(だるま)総裁」として写真入りの記事にした。
退院してほどなくしての6月27日、是清が直子との間に設けた4人の姉妹の2番目である喜美が岡千里と結婚した。
岡は是清と同じ仙台藩家臣の家系である。高橋利一(形式的には高橋本家を継いだが、是清が息子として育てている)の慶応義塾の同窓生だった。
岡がまだ学生だった頃、利一に連れられて初めて是清の家を訪れた時には驚いた。なにしろ利一の父上というのが高橋是清だったからである。
是清は威厳こそあれ威張るでもなく、質問をすれば若造に対しても何でも丁寧に答えてくれた。
そうして赤坂表町の屋敷や葉山の別荘を何度か行き来しているうちに、岡は喜美と恋愛に落ちたのだ。岡は三井銀行に就職し、是清が病み上がりのこの年に喜美と結ばれたのだった。
女婿となった岡は是清とより近しく接するようになり、そのやりとりを日記に残した。
報道合戦
東京で是清が入院していた頃、満州では、日本にとっていろいろと情勢が悪化していた。
少しさかのぼる。
昭和3年6月、張作霖を日本軍に爆殺された息子の張学良は、軍閥を引き継ぐと易幟(えきし)(青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)を条件に当時北京に入った蒋介石と融和した。元はと言えば、北京にいた張作霖が満州に帰ろうとしたのは、蒋が北京に入り、押し出されたからだ。
張学良は父の敵である日本を恨み、満州における日本利権に対する規制を強化した。
それは中国との融和策を採る浜口内閣の「幣原外交」になっても改善はしなかった。反日運動も強まるばかりである。
昭和6年、張学良が推し進める南満州鉄道(満鉄)の競合線の営業が開始されたことや、米国発の大恐慌の影響もあって満鉄は初めての赤字に転落した。
日本側は満鉄の経営不振を「生命線の危機」として捉えて、一夕会の陸軍若手幕僚にとっては議論してきた「満蒙領有論」は待ったなしの現実的な戦略となったのである。
張学良は勢力を拡張し、さらに錦州に大規模な港湾建設を開始、これが完成してしまえば日本が支配する大連港や満鉄の経営に悪影響を及ぼすのは必至の情勢となった。
これに際し関東軍作戦主任参謀の石原莞爾中佐は5月に作成した「満蒙問題私見」(謀略ニヨリ機会ヲ作製シ軍部主導トナリ国家ヲ強引ス…
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週刊エコノミスト
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