小説 高橋是清 第195話 英国金本位制離脱=板谷敏彦
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(前号まで)
若槻礼次郎内閣発足、是清がアメーバ赤痢と診断され入院中の頃、満州情勢は悪化していた。張学良勢力が伸張し、奉天近郊で満鉄線が爆破、柳条湖事件が勃発する。
昭和6(1931)年9月18日午後10時20分ごろ、満州にある関東軍はかねてより準備されていた作戦計画に従い柳条湖付近(奉天北、現瀋陽市)の鉄道線路を爆破した。
関東軍は間髪を入れずこれを中国軍の犯行であると決めつけて彼らの兵営がある奉天城に攻撃をしかけると同時に、満鉄沿線の18の駅を占領しにかかった。
満州事変の始まりである。
関東軍司令部所在地の旅順にいた本庄繁司令官は状況報告を聞くと、
「(中国軍の)武装解除ぐらいの処置が適当ではないか」
と答えはしたものの、作戦主任参謀石原莞爾中佐が次々に起案する命令書を黙々と承認していった。
作戦は司令官である本庄本人の意思ではなく、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と石原、その他数名の参謀によって主導されたものだった。
翌19日朝には日本軍は奉天市を掌握、臨時市長に奉天特務機関長の土肥原賢二大佐を就任させた。すべて準備万端だったのである。
満州事変
事変3カ月前のこの年の6月、陸軍省の永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長(人事)、参謀本部の東条英機編制動員課長ら、陸軍中央の主要課長が参加した「五課長会議」が発足、ほとんどが一夕会のメンバーである。
彼らは「関東軍に行動を自重させるが、張学良政権の排日行動がやまなければ、軍事行動のやむなきに至るだろう」という内容の「満州問題解決方策の大綱」を策定していた。
陸軍中央のエリートたちは作戦の詳細までを把握していたかは別として、関東軍が軍事行動を起こすことは認識していた。日本という国は陸軍の課長クラスが動かしていた。
9月19日東京の朝、事件の一報を受けた若槻礼次郎首相は臨時閣議を開いた。
南次郎陸相から、中国軍による策動などの通り一遍の説明を聞いたが、井上準之助蔵相以下閣僚たちは納得がいかない。現内閣は金解禁を実施して緊縮財政の最中である、ここで戦争を起こしては戦費の負担がたまらない。
「奉天総領事からは、全く軍の計画的行動であるとの電報を受け取っておりますが」
若槻が南陸相に関東軍の暴走ではないかと迫ると南は沈黙した。
南には関東軍から満州への朝鮮軍派遣の要請が届いており、その是非を閣議に諮らなくてはならなかったが、南は言い出せなかった。
当時の関東軍の兵力はそもそもが満鉄守備の名目であるから1万1000人ほどしかいない。今事件の石原ら関東軍の狙いは満州全土の掌握であったのでこれでは全く足りなかった。そこで関東軍は朝鮮軍の援助を請うつもりだった。
だが内閣は閣議で不拡大方針を決めた。
中国軍は奉天がある遼寧省に5万の兵力、事件当時北京にいた張学良には手元に10万の兵力があったが、日本の軍事行動を単なる「挑発」と認識して不抵抗を決めた。国民政府主席の蒋介石は共産党軍討伐に忙しく、張の不抵抗を支持した。
蒋は立志救国にはまず国家の統一と力の集中を図るべきと、内憂外患の内憂、すなわち共産党勢力を取り除くのが先決であると考えていた。
また蒋は満州を中国の周辺の一部としてみていた。やがて日米が開戦し、日本が敗北すれば満州はいずれ中国に戻ってくると考え、この1931年の時点では日本と全面的な軍事衝突を起こしてまで奪還すべきだとは考えていなかった。
従って関東軍は中国軍の抵抗がない中、兵力を満州全土に展開できたのだった。
* * *
事件の3日後の9月21日、満州事変の凶報を追いかけるようにして、英国から入電があった。
英国が金本位制離脱を決めたのである。
振り返れば約2年前、1929年10月のニューヨーク株式市場大暴落に端を発する恐慌は、欧州大戦の賠償を抱えるドイツ財政を圧迫し、ドイツ、オー…
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週刊エコノミスト
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