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小説 高橋是清 第196話 キリスト教と観音様=板谷敏彦

(前号まで)

 満州事変が始まり、日本政府は不拡大方針を決めるが、朝鮮軍越境という軍部の独断を追認する。同時期に英国が金本位制離脱、金解禁を政策の要とする若槻内閣に衝撃が走る。

 

 昭和6年夏、浜口雄幸が逝去し、万宝山事件や中村大尉事件で日中の新聞が互いに憎悪をかき立てる報道合戦を繰り広げている頃である。

 満州の陸軍はいつ武力行使に出てもおかしくはない。また欧州経済にも暗雲が垂れこめ、英国の金本位制離脱がうわさされ始めていた。

 退院した是清は痩せ細り、その風貌もすっかり老人のようになった。それでも相変わらず新聞を読み、辞書を片手に英語の経済誌にも目を通す。景気動向も追いかけて頭の中には現状に対する処方箋もあったはずだ。

 井上準之助が大蔵大臣になる時に、是清を訪ねてあいさつをして以来、「高橋は井上の金解禁に対してこう言った」という伝聞はあるが、公式には何らの論評もしていない。相変わらず立憲政友会の長老であるのだから、金解禁に対する強い否定的な論評があっても良さそうなものだが、この間是清は井上の邪魔になるような言動は意図的に避けていたのに違いない。

聖書

 現在、東京都小金井市にある江戸東京たてもの園には当時赤坂表町にあった高橋是清邸の母屋が移築されて残されている。是清はこの母屋で過ごし、家族は廊下でつながれた離れで暮らしていた。

 2階に書斎と寝室に使う床の間の2間があり、書斎には大きな洋机がおかれて仕事はそこでこなした。床の間の方には文机がおかれて是清は就寝前にお習字をするのが習慣だった。

 1階はお座敷で、是清が食事をとったり、あるいは来客があると接待をしたりする場所として使われた。政友会の要人が相談で訪ねた時や、政財界から大勢の来客がある年末年始、是清はここでもてなした。

 この1階のお座敷の、芝生の庭に面したところには沓脱石(くぬぎいし)が置かれ直接庭へと出られるようになっていた。是清は庭を散策し、疲れると芝生の上に籐(とう)の椅子を置き、時にはまだ若かった頃を思い感慨に耽った。

 是清は半紙サイズの古くて分厚い大きな聖書を後生大事に持っていた。これは仙台藩留学生として米国へ行ったが、実際は奴隷のように働かされて帰国した頃、薩摩の森有礼(ありのり)に保護してもらったことがある。この聖書はその頃「近代日本建設の父」とも呼ばれたお雇い外国人のグイド・フルベッキからもらったものである(第11話)。

 米国に赴任することになった森は、日本に残していく是清の面倒をフルベッキに託した。

 フルベッキの家に下宿した是清は、彼から40分ほどの聖書講読の授業を隔日のペースで2年間ほど受けた。大学で言えば単位取得のレベルであり、是清の聖書に対する知識はクリスチャンも見まがうほど深かったわけである。

 この聖書は是清がフルベッキ邸から出て外で下宿する時に、どんな時も一日に一度は必ず読むようにと手渡されたものだった。

 もっとも是清はその直後に芸者の箱持ちに落ちぶれたのであるが、それでもこの聖書だけは手放さなかった。またペルー鉱山事業の失敗で持ち物を全部処分したときもこの聖書は身の回りの品として生きながらえたのである。是清の人生をずっと見てきた聖書である。

 メソジスト派の牧師、山鹿旗之進は明治の終わり頃から是清に招かれて、よく赤坂表町の自宅や葉山の別荘を訪ねた。

 是清はいつも聖書を側に置いている。それについては半信半疑だった山鹿はある時、聖書を是非見せてほしいと所望した。

「私の聖書をここに」

 すると是清は即座に女中に命じて2階の書斎から聖書を持ってこさせたのである。

 果たしてその聖書には書き込みが入り、まじめに勉強した痕跡がありありと残されていた。

「山鹿先生のご説教の通り、人間というものはまことに弱い者で、人力の尽きたる場合には祈祷(きとう)するものです。されど自分はあまり祈りません…

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