小説 高橋是清 第197話 深井の説得=板谷敏彦
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(前号まで)
満州情勢が緊迫する中、英国はじめ欧州主要国が金本位制離脱を発表、日本も追随すると市場は踏み、ドル需要が一気に高まる。日本の正貨が流出していく。
昭和6(1931)年9月22日、柳条湖事件に続く満州事変と呼ばれる一連の日本軍による侵攻に対して、国際連盟理事会は中国の提訴を受理した。同日、昭和天皇は若槻礼次郎首相の不拡大方針に対して、「自分もしごく妥当だと思う」と語った。
南次郎陸相もこの方針を了承、金谷範三参謀総長もこの趣旨を陸軍部内に通達した。
ところが一夕会を中心とする中堅幕僚グループは関東軍に呼応した。満州に中国から分離した独立政権を樹立する案を起案すると、清朝のラストエンペラーである愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)に新国家の頭首とすることを伝えた。
10月に入ると南陸相も一夕会の突き上げを受けて方針を転換した。陸軍全体が関東軍の方針に同調すると、陸相辞任による倒閣を恐れた若槻も折れてしまい、南満州の軍事占領と新政権の樹立を認めてしまったのである。
陸軍内の下剋上が、結果的に天皇の意思をも曲げて政府本体をも動かしてしまったのだ。
混乱する市場
当初欧米は満州問題にあまり興味を示さなかった。それよりも混迷を深める世界大恐慌と英国はじめ欧州諸国の金本位制離脱の方が切実な課題だった。国際連盟も中国からの提訴に対して、日本軍の撤退を求める勧告を出した程度だった。
ところが10月8日関東軍は守備範囲であるはずの満鉄付属地から遠く離れた錦州を爆撃。ここに張学良がいたからである。この爆撃行には本事件の首謀者である関東軍の石原莞爾参謀が自ら乗り込んでおり、意図的に騒ぎを大きくして軍中央に軍事作戦の遂行を促す狙いがあった。
だがこれは欧州大戦後初めての一般市民が巻き込まれる都市爆撃であり、不戦条約にも反するもので、国際連盟を刺激した。
10月24日、理事会は日本軍の満鉄付属地までの撤退案を賛成13票、反対は日本の1票で可決した。しかし効力を持つには全会一致が原則であったので何も起きなかった。
関東軍は侵攻を続けた。11月には満州北部のチチハルを占領、翌年昭和7年1月2日には錦州も陥落させると、連盟は満州に調査団を派遣することを決めた。これがリットン調査団である。
この間、新聞は事変の正当性を主張、陸軍発表のはなばなしい戦果やちょっとした美談を記事とし、国民は熱狂をもってこれを読んだ。
新聞各社は多数の特派員やカメラマンを派遣し、空輸した写真を使って号外を発行、読者を大幅に増やした。メディアは軍と関係が深化し、これにおもねるようになった。海外は進行する事実を見ていたが、日本国民が事変の真実を知るのは第二次世界大戦に敗北してからだった。現代のロシアによるウクライナ侵攻をほうふつさせる。
* * *
満州事変は日貨排斥運動を引き起こし貿易収支を悪化させる。また満州事変に対する出費は緊縮財政を必要とする金本位制経済の基礎をおびやかす。
9月20日には英国が金本位制を離脱した。翌21日には、朝から横浜正金銀行(正金)にドル買いが殺到した。井上準之助蔵相がこれを受けて強気の談話を発表したことは既に書いた。
井上は正金にドルを買いたい者には徹底的に売り向かうように指示をした。もちろんこれによって発生する損失は政府が持つ。つまり日本は手持ちの正貨がどんどん流出することになる。
もし正金がドルを売り渋れば、市中銀行は日銀で円を金に兌換(だかん)して、欧米に現送(現金・現物を輸送すること)して現地通貨と交換することになる。実際に正金が消極的だった金解禁初期に現送は大規模に起こった。
一方で、兜町の株式市場には21日、寄り付きから少したったところで、ロンドン株式市場休場の電報が飛び込んだ。
すると市場は「ワッ」という喚声とともに各銘柄一斉に売り物に…
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週刊エコノミスト
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