ロシアとウクライナのキリスト教を知らずに“プーチンの戦争”は語れない=下斗米伸夫
ロシア・ソ連といえばかつては「宗教はアヘン」といった無神論の世界と思われた。ロシア革命の指導者だったレーニンは宗教を否定し、世界初の社会主義国を設立した。しかし、ロシアの歴史をみると、政治と宗教との関係が極めて深い。プーチン政権下で続くウクライナとの戦争も、10世紀前後にあったキリスト教国家、キエフ(キーウ)・ルーシが両国の起源であることが影響しているともいえる。
キエフ・ルーシは、9世紀末から13世紀半ばにかけて今のウクライナからロシア西部を支配した当時の大国であり、首都をキエフに置いた。10世紀に君主であるウラジーミル(ヴォロジーミル)大公がクリミア半島でキリスト教の洗礼を受け、キリスト教国家となった。領土もウラジーミルと息子の統治下で最大となり、繁栄を誇った。
ウクライナとロシアは今もどちらがキエフ・ルーシの後継国かをめぐって争っている。ちなみにルーシはロシアの古称である。
7月28日はウラジーミルが受洗した記念日だった。キーウではゼレンスキー大統領が、ウクライナこそ唯一正統な国家の日であると演説すれば、モスクワではロシア正教会のキリル総主教が「歴史的ルーシ」の日であると語った。こうした背景にはウクライナは西側半分の地域はカトリックの影響がある一方、ロシアでは多数派がロシア正教を信仰しているという違いがある。
ウクライナがロシアとの距離感を示すのに対し、ロシアは一体感を主張している。2014年にウクライナの統治下だったクリミアを武力で併合したプーチン大統領は、21年7月に「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」との論文を発表し、ロシアとウクライナとは同祖、同じナロード(民)であると強調した。
ロシアは「正教の帝国」
ロシア正教は東ローマ帝国の国教だった東方正教が母体となっている。1000年近く続いた東ローマ帝国の国教だった東方正教は、国家と教会との関係が緊密である。ナショナリズムの影響を受けやすく、国家の都合で教会分裂(ラスコル)も起きる。事実、キエフ・ルーシのウラジミール大公が自ら受洗した直後の11世紀に東方正教とカトリックとが分裂した。
15世紀に東ローマ帝国が滅びると、聖都として「第三のローマ」を呼号したモスクワが台頭、カトリックの影響を退ける。17世紀には東方正教徒のウクライナ・コサック(ウクライナの自治的な武装集団)と同盟、これを基礎として18世紀にはピョートル大帝が帝国ロシアを創設した。
この帝国はロシア人の帝国ではなく正教の帝国であって、ロシア正教会は「大ルーシ(今のロシア)、小ルーシ(ウクライナ)、ベラルーシ」というルーシ国家の国教となった。ロシア帝国は、カトリックやユダヤ教、イスラム、正教から分離した古儀式派(ラスコリニキ)などとは信仰上相容れなかった。
プーチン政権下で、ウクライナ東部を巡ってロシアとウクライナの戦闘がたびたび続いているのは、歴史的なこうした対立による宗教や言語戦争の側面があると私は考えている。
スターリン時代の転機
第一次世界大戦というロシア帝国崩壊の過程で、レーニンが創設した共産党は無神論と社会主義をイデオロギー的に打ち出した。スターリン、フルシチョフ、ブレジネフと続くソ連指導者の下で宗教は弾圧と緩和が繰り返された。スターリンはジョージア出身で神学校で学んだ時があったが、素行不良で退学処分となったのち、革命活動に進んだとされている。
そのスターリン時代は宗教が復活したが、転機は戦争だった。モスクワが対ドイツ戦争で陥落寸前となった1941年以降、スターリンはロシア正教会を復活し、ロシア人の反ナチの愛国的信仰に訴えた。当時のモスクワは正教会から分離した古儀式派(ラスコーリニコフ)が多かった。「モスクワを第三のローマ」とする古儀式派は祖国を守れという機運が高まった。
その後のフルシチョフは社会主義を強く信じた炭鉱出身の政治家だった。反宗教キャンペーンを展開し、教会をトラクター保管所に変えるなど、宗教弾圧が続いた。
ペレストロイカで復活
ソ連では共産党の力が弱まった70年代頃から宗教は事実上、認められていた。当時私はソ連に留学中だったが、物理学者や数学者など知識層が教会に通う姿をしばしばみかけた。ブレジネフ政権は宗教を黙認していた。母がウクライナ系のゴルバチョフがペレストロイカ(立て直し)で布教の自由を認めたのはキエフ受洗1000年(988年のウラジミール大公の受洗)の1988年だった。この間、宗教組織の監督をした共産党のお目付機関、KGB(国家保安委員会)に正教シンパがいたことはプーチン大統領自身が自伝で認めたが、今の政権はこの正教系KGBの政治的影響が強い。
ソ連崩壊後の自由化の流れのなか正教の復活、共産党とイデオロギーが衰退した21世紀には、プーチン大統領流の保守主義がもとになり、国家と正教会とが緊密化、愛国と正教とはキーワードとなった。
ロシアとウクライナの教会分裂
2014年にウクライナのNATO(北大西洋条約機構)支持派が仕掛けたクーデター、マイダン革命以降、ウクライナ東部のロシア語話者に対するウクライナ軍の反テロ作戦が高じて内戦となった。8年後この対立が極点に達した結果が、現在プーチン大統領が発動している「特別軍事作戦」と称する“兄弟殺し”の戦争だ。西ウクライナには強い北米のサポーターがいれば、東ウクライナはロシア語話者の正教地域だ。
プーチン大統領の発動した作戦は、当初想定した「数日」ではなく、すでに半年が過ぎている。停戦も平和条約のめどもたたないまま1000万人の難民や双方でそれぞれ十万人単位の将兵の死傷者が出ている。何より教会が再分裂し、ロシア正教会の管轄下にあったウクライナ正教会キエフ総主教派などが、2018年以降は東方正教会の筆頭権威であるウクライナ正教会コンスタンチノープル総主教派となった一方、ロシア正教会管轄のウクライナ正教会モスクワ総主教派の中にも戦争をめぐって分裂が生じている。
プーチン大統領は最初、正教徒を含むロシア語話者の多い東部ドンバス2州の独立を作戦発動の口実にした。当初首都キーウで短期決戦に挑めば同胞に「花束で迎えられる」と踏んだが、完全な誤算だった。ウクライナ軍はNATO軍に鍛えられ、軍事大国化していた。アゾフ連隊など私兵や各種宗派の兵士たちによって、キーウ空港を襲ったロシア空挺部隊は完敗した。
その後ロシアは態勢を立て直し、東ウクライナに兵力を集中、東南部のヘルソンや東部二州で攻勢に出た。マリウポリの鉄工所に立てこもったアゾフ連隊は、ロシアから見ればネオ・ナチと呼ばれるが、実際にはカトリックやイスラム教などさまざまな宗教的集団により再教育された混成軍事組織だ。たとえばアゾフ連隊の中にはソ連崩壊後にリトアニアのビリニュスでプロテスタントの牧師となり、マリウポリで反麻薬、孤児教育を通じて民間戦闘員も育てたという経歴を持つプロテスタント派の活動家もいる。
宗教トップ会談か
ウクライナ戦争で最初の停戦の機会を潰したのは3月末にポーランドを訪問したカトリック系の米国大統領バイデン氏のプーチン大統領を失脚させるという「失言」だった。だが彼に苦言を呈したのもカトリックのフランシスコ・ローマ教皇である。フランシスコ教皇はロシアに対して停戦の呼びかけを繰り返し、同時にNATOの東方拡大がプーチン大統領のウクライナ侵攻を誘発したと批判もしている。
消耗戦がウクライナを疲弊させるなか、フランシスコ教皇は9月にカザフスタンで開催される世界の宗教指導者会議に出席する。会議にはプーチン大統領支持を打ち出しているロシア正教会のキリル総主教も参加が予定されており、双方の宗教界トップ同士の会談が行われる可能性がある。ふたりは15年にキューバで会談したこともある。
いろいろな意味において宗教は政治だ。プーチン大統領はロシア正教の復興を利用しており、歴代の指導者の中では宗教色が強い。キエフ・ルーシ以来のロシア3兄弟(ロシア、ウクライナ、ベラルーシ)の一体化という考えはプーチン大統領の揺るぎない政治目的になっている。
(下斗米伸夫・神奈川大学特別招聘教授)