経済学を不毛な知的遊戯に変えた『ルーカス批判』を批判する 吉川洋
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日本経済の処方箋/5 あだ花に終わったルーカス理論の影響は、いまだに消えず、バランスを欠いて「期待」の役割を強調する経済モデルの流行は今も続いている。
今から半世紀ほど前、1970年ごろまでマクロ経済学といえば、ケインズ経済学だった。当時のコンセンサスは、戦後の経済学界を代表する著名な経済学者サミュエルソンが唱えた「新古典派総合」だった。資本主義経済は時として不況に陥り失業率が高まるから、そうしたときにはケインズ経済学の処方箋通り、適切な財政/金融政策によりできるだけ早く「完全雇用」を回復する必要がある。完全雇用の状態に到達したら効率的な資源配分も重要だから、それには新古典派経済学の教えに従えばよい。経済学は、マクロ経済学=ケインズ経済学と、ミクロ経済学=価格理論から成る二刀流だったのである。
しかし過去50年の間にケインズ経済学は退潮し、マクロ経済学は新古典派的なマクロ経済学へと姿を変えてしまった。詳細は拙著『マクロ経済学の再構築』(岩波書店、2020年)に譲るが、「ケインズ反革命」とでも呼ぶべき学問的変遷の過程で最も大きな影響を与えたのは、シカゴ大学のミルトン・フリードマン(76年ノーベル経済学賞)とロバート・ルーカス(95年ノーベル経済学賞)である。
粉砕されたケインズ経済学
フリードマンは、ケインズ経済学が全盛だった60年ごろから異を唱えていたが、当初異端扱いだったその影響力を一気に高めることになったのは、67年のアメリカ経済学会の会長講演「金融政策の役割」だった。これは、当時広く受け入れられていたフィリップス曲線(物価上昇率と失業率の間にみられる負の関係)は「長期的」には成立しないことを主張したものだ。フリードマンの主張は新古典派経済学の立場からすれば自明だが、当時はケインズによって葬り去られたはずの新古典派の均衡理論を、浮世離れした数理経済学の世界ならともかく、まさか現実の経済に当てはめる経済学者が現れようとは誰も想像していなかったから、それだけにフリードマンの主張が新鮮に見えたということだ。
巧みな──しかしよく考えてみると、隙間(すきま)だらけの──フリードマンの議論は、驚くほどのインパクトを学界に与えた。とりわけフリードマンがフィリップス曲線を批判する上で持ち出し、その後現在に至るまで異様なまでの影響力を持ち続けているコンセプトが、物価に関する「期待」である。フリードマンは、金融政策あるいはマネーサプライ(ストック)は長期的には物価を比例的に上昇させるだけ(貨幣数量説)だが、短期的に物価の上昇期待がそれを織り込めない限りにおいて、失業率や実質国内総生産(GDP)など実体経済に影響を与えるとした。
フリードマンからバトンを受け取り、その主張を数学的なモデルに仕上げたのがルーカスである。その際にルーカスが用いたのが、米経済学者ジョン・ミュースの独創の産物であった「合理的期待」である。物価であれ為替レートであれ、将来の値がどのようになるか、その「期待」はどのように形成されるかは、経済学にとって重要な問題である。ミュースは期待形成そのものの最適化…
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週刊エコノミスト
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