教養・歴史

黒木亮がゆく 清水一行が這い回った兜町 黒崎亜弓

兜町を日本橋川から臨む黒木亮さん。背後は日証館(撮影 髙橋勝視)
兜町を日本橋川から臨む黒木亮さん。背後は日証館(撮影 髙橋勝視)

 相場を通じて人間の欲望を描く──。2人の作家が、時代を超えて兜町で交錯した。

「兜町」と書いて「しま」と読ませる。なるほど、東京証券取引所や証券会社が集まる一角は日本橋川、今は暗渠(あんきょ)となり首都高が通る楓川で囲まれている。 作家・清水一行(いっこう)(1931〜2010年)は、証券マンを主人公に株式市場にうごめく人々を臨場感たっぷりに描いた『小説兜町(しま)』で1966年にデビューすると一躍、売れっ子となった。ものした作品は214に上る。

 清水一行の生涯をたどった『兜町(しま)の男』を昨年12月に刊行したのが、国際金融小説の名手である黒木亮さんだ。なぜ今、清水一行なのか。兜町をぐるりと囲む川を舟でゆきながら聞いた。

相場小説はキワモノか

黒木 実は、僕は清水さんの作品をあまり読んでいませんでした。

 でも、2010年に清水さんが亡くなった時、訃報の扱いがずいぶん小さいことが気になりました。同時代を生きた城山三郎さんとは対照的でした。やっぱり経済小説のなかでも相場小説は文芸の世界でキワモノ扱いなのかと思ったのです。

 文芸が人間を描くものだとしたら、相場を通じた人間の欲望は一つの大きな要素のはずです。経済小説でも、サラリーマン小説と呼ばれるような人間が前面に出てくるものは昔からあります。清水さんが新しかったのは、相場の動きを中心に描いたことです。

 文芸編集者は、人間が中心の小説であれば理解できるのですが、経済のことはよく分からないので、株式用語が出てきたとたんシャットアウトしてしまう。僕自身がそのことに反発を感じていたので、清水さんに光を当ててみたいと思いました。

東京証券取引所の前で黒木亮さん(撮影 髙橋勝視)
東京証券取引所の前で黒木亮さん(撮影 髙橋勝視)

 黒木さんの「カラ売り屋」シリーズは、株式市場で過大に評価されている企業にカラ売りを仕掛ける投資ファンドと企業側が相場を舞台にせめぎ合う様を描く。カラ売りファンドが企業の不正を暴こうとする正義感と、株価の下落でもうけたいという欲の双方で突き動かされるところが魅力だ。 ところが、一般出版社の編集者からは「そもそもカラ売りの仕組みがよく分からない」との声が上がるという。

かつて35の証券会社が入居していた日証館にて(撮影 髙橋勝視)
かつて35の証券会社が入居していた日証館にて(撮影 髙橋勝視)

 舟が日本橋のたもとを出発すると間もなく、右側に風情のある白壁の洋館が見えてきた。日証館だ。1928年に建てられた歴史ある建物である。若き日の清水一行は、ここ日証館付近を拠点に、兜町を這(は)い回るようにして取材していた。 戦後、共産党に入って活動するも決別し、日証館の隣のビルに研究所をかまえる株式評論家を師として経済ライターに。並行して小説を書きためた。『兜町の男』で黒木さんは清水がデビューに至る足取りを丹念に追った。

黒木 僕も何度も新人賞に応募したり出版社に原稿を持ち込んだりして、壁の厚さを感じました。その点は、共感を持って描くことができましたね。

 清水さんは、講談社の女性編集者に風呂敷で包んだ持ち込み原稿を足置き代わりに使われたりして、相当屈辱感があったと思います。名編集者と言われた河出書房新社の坂本一亀は、清水さんの作品を5年間読み続けながら出版しませんでしたが、デビュー作が売れたとたん、「2作目を出す」と恩の押し売りをしたことを清水さんはのちに小説に書いています。

 作家は誰しもデビューまでの苦労を大なり小なり経験していると思いますが、清水さんは屈辱的な思いをしても全然あきらめない。どうしても作家にならないと気が済まなかったのでしょう。

兜町は様変わり

 いま兜町は再開発が進む。軒を連ねた中小証券、通りを行き交った証券マンや出前持ちは消え、清水が通った喫茶店も閉店した。代わりに巨大ディスプレーを置いた高層ビルがそびえる。

黒木 清水さんがデビューした当時の兜町は活気とわい雑感があって、人間臭かったのだと思います。そのような状況はバブルの終わりごろまで続いていましたが、東京証券取引所が電子化され、手サインで売買注文を伝える“場立ち”もいなくなり、様変わりしました。

 相場をめぐる風景は、僕が2000年にデビューした頃からも変わっています。『巨大投資銀行』のための取材でトレーディングルームに入ると、金融マンたちは叫んだり怒鳴ったりしていました。いろいろな感情が凝縮された場所で面白かったのですが、今はキーボードをたたく音しかしません。

 兜町もトレーディングルームも、人間の欲望がドロドロと渦巻く雰囲気がなくなってしまった。時代が変わったのでしょうが、書き手として面白い場面を描くのが難しくなっています。

 それでも人間の欲望は永遠になくならないし、「説明するな、描写せよ」というのが小説の大原則です。どう表現するのか、作家の腕の見せ所です。相場や経済のメカニズムを通じて人間を描いてこそ、経済小説だと思います。欲望がぶつかりあう場面を取材で拾っていくしかありません。

 清水さんに感心したのは、ものおじせず人の懐に飛び込んでいって話を聞くバイタリティーです。やはり、面白いものを書くには足で稼がなければならないのです。

 舟は日本橋川から亀島川に進み、隅田川へと出た。東京スカイツリーが見える。その足もとの東京都墨田区の玉の井(現・八広)にある娼家で清水一行は育った。清水は隅田川を「心のふるさと」と言ったそうだ。ドン川流域のコサックたちの生きざまを描く『静かなドン』のような大河小説を書き上げたかったのだそうだ。その夢はかなわなかった。『兜町の男』は、清水の未完の遺作で幕を閉じる。

(黒崎亜弓・ジャーナリスト)


週刊エコノミスト2023年1月31日号掲載

清水一行が這い回った兜町を黒木亮がゆく=黒崎亜弓

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