教養・歴史『週刊エコノミスト』が生まれた時代

④産業勃興で経済誌が次々(最終回)板谷敏彦

 今から100年前の1923年4月1日、『週刊エコノミスト』創刊号が発売された。全文60ページ、そば1杯が10~15銭の時代に定価30銭で、経済誌としては当時破格の11万3000部を売り尽くしたという。当初は月2回発刊の半月刊誌だった。

 世界で最初に発刊された経済雑誌は、1843年の英『ジ・エコノミスト』である。時あたかも鉄道が普及し、帆船が蒸気船へ、産業革命が進展し、社会における経済や金融への関心が高まった頃だ。

 産業革命で一歩リードし、輸出競争力が高い商品を持つ英国は、ジョン・スチュアート・ミルや『ジ・エコノミスト』誌編集長のウォルター・バジョットらが自由貿易論を展開し、英国を追う立場のドイツはフリードリッヒ・リストによる保護貿易論を主張するなど経済学に関する議論が活発化する時代背景にあったのである。

 ウォルター・バジョットは1873年に中央銀行の「最後の貸手論」、後の古典となった『ロンバード街─金融市場の解説』を著し、経済誌の存在は大英帝国の財政金融政策にも大きな影響を与えた。

 明治の初めに日本に新しい制度を取り入れるべく欧米を訪問した日本人たちは、すべからくこの経済雑誌に触発された。「日本にもこうした経済誌が必要である」と。

 外遊経験こそないが官僚で出版を通じて啓蒙(けいもう)活動をしていた田中卯吉は、1879年、『ジ・エコノミスト』を範として『東京経済雑誌』を創刊し、自由主義の立場から論陣を張った。これが本邦初の経済雑誌である。

 この『東京経済雑誌』は大盛況とはいかず細々ながら経営を続けていたが、『週刊エコノミスト』が創刊された1923年に関東大震災の被害を受けて廃刊となった。

 秋田県人の町田忠治は帝大を出た後、大蔵省を経て民権派の政論新聞である『朝野新聞』の記者となった。

 この時、同僚となったのが後の首相・犬養毅(号は木堂)と、憲政の神様・尾崎行雄(号は咢堂(がくどう))である。町田は号を「幾堂」と名乗り、この3人は「三堂」と呼ばれ論陣を張った。

『朝野新聞』が政府から圧力を受けると、3人は大隈重信の『郵便報知新聞』に移籍するが、犬養と尾崎は政治家になり、町田が新聞社を切り盛りした。

『東洋経済』『ダイヤ』も

 この町田が1893年に外遊すると、『ジ・エコノミスト』が英国経済界において指導的地位にあるのを見て日本での必要性を痛感した。それを受けて1895年11月に創刊したのが『東洋経済新報』である。

 1895年は日清戦争が終結し、清国から賠償金を得ると同時に三国干渉により臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を決意する年である。富国強兵にいそしむ日本には、経済情報発信のメディアが必要な背景があったのだ。町田は同誌経営を軌道に乗せると、友人である天野為之に経営を譲り、日本銀行に入行した。

 町田はその後、政界に転じて立憲民政党の総裁になる。2・26事件で高橋是清蔵相が暗殺された後の大蔵大臣である。

 もともと月2回発刊だった『東洋経済新報』は1919年に週刊化し、石橋湛山を主筆に経済論壇をリードした。

 同時期の1897年には大日本実業学会が『実業之日本』を創刊した。社主の増田義一は読売新聞記者で、後に衆議院副議長や大日本印刷の初代社長を務めることになる。1909年には新渡戸稲造が編集顧問となり、各種雑誌を発刊して大手出版社へと成長していった。

 第一次世界大戦勃発直前の1913年には、新聞記者だった石山賢吉が『ダイヤモンド』を創刊した。当初営業は苦戦したが、当時あまり例がなかった決算報告書を基に書く会社論評が、高い評価を得て業容を拡大した。今でいうファンダメ…

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