「美しい物を見る時には目を閉じるの」 楊逸
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雨がち曇りがちの天気が長く続くと、気落ちしてなんとなくしんどく感じてしまう。重くて低いという山陰の曇り空も同じような感じだろうか。
そう思ったのはちょうど、孤独と不安を「底色」に翻弄(ほんろう)される人生を描く小説『夜を抱く』(佐藤洋二郎著、鳥影社、1980円)を読んでいたからかもしれない。
家庭の事情によって、生まれ故郷の福岡から「母」の実家がある山陰に引っ越した「わたし」。思春期を迎え、多感な感情を持て余し、一人で悩み苦しんでいるころに古い図書館でカフカの『変身』を手に取る。最初は読んでもよくわからなかったが、やがて『変身』の主人公を「自分そのものだ」と思うようになり、自由を求めて東京へと一人旅に出る。
それはまさに「人生の旅」の始まりであり、その時電車の中で出会った「南川夏帆(かほ)」が終生恋する相手になることも、晩年、幼なじみの「大川清一」の死を見届けることになることも知らず、17歳の青年はただ青春という闇から逃げるかのように「暗いトンネルの中を手探りで歩いているようなもの」だった。
「切れそうで切れない。つながっているようでつながっていない」。こんなくだりを読むと、恋愛関係に限らず、人生に関わる家族や友人など、ありとあらゆる関係とはそういうものなのではないかと悟った気がする。
そしてこの小説は、戦後の激動の時代、人々の喜怒哀楽ないし生死を穏やかな筆致で静かに語りかけてくる。
「美しい物を見る時には目を閉じるの。そうしたらもっと美しい物が見えるでしょ? 目を開けてばかりいると、現実の嫌なことばかり見てしまうわ」
私は本を閉じ、思わず目も閉じた。
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