幼少から目利きの渋沢栄一 日本経済の近代化に貢献 今谷明
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幕末、“黒船来航”に見舞われてからの日本は、植民地化の危機にさらされた。その危機を回避すべく、幕府と各藩は、数百人の留学生を欧米諸国に派遣し、必死になって欧米に追いつこうと試みた。
しかしこの時期、アメリカは南北戦争、ロシアはクリミア戦争という戦乱になり、幸い日本は英仏両国への対応を主とすればなんとか間に合うことになった。この国際情勢は、実にわが国にとって僥倖(ぎょうこう)であった。
このような地政学的環境下、フランスは幕府に肩入れし、一方イギリスは薩長両藩と結びつき、深慮遠謀のかけ引きをくり返すことになったのである。さて維新後、日本の近代化へ向けて諸人物の活躍が見られたが、渋沢栄一ほど多彩な役割を果たした人物はいなかった。
渋沢は武州の豪農の出身で、縁あって禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)(朝廷が京都御所警護のために置いた役職)の地位にあった徳川慶喜(よしのぶ)の末臣となり、募兵や財政に才を発揮したが、慶応2(1866)年に慶喜が将軍に就任したので、渋沢は幕臣となったものの、不本意な地位に放り出された。
この時にあたり、慶喜の弟、徳川昭武が将軍名代としてフランスの世界博に招待され、あわせて数年間留学することになり、渋沢は昭武付きの幕臣として渡仏することになったのである。
渋沢栄一・杉浦譲著『航西日記 パリ万国博見聞録 現代語訳』(大江志乃夫訳、講談社学術文庫、924円…
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週刊エコノミスト
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