国民にとって望ましいのは「実質賃金と生産性の好循環」 門間一夫
輸入価格主導のインフレで「物価高不況」に陥っている日本に求められる処方箋とは。
2022年以降の物価上昇は、海外発のインフレから始まった。エネルギーや食料などの国際価格が大幅に上昇し、円安がそれに拍車をかけた。その円安も米欧の利上げが主因なので、海外インフレが日本に波及する経路のひとつと見ることもできる。
物価高がコロナ貯蓄食い潰す
輸入価格主導のインフレは、国内の購買力を低下させるという意味で、いわゆる「悪い物価上昇」である。家計所得の代表的指標である雇用者報酬は、名目ベースではコロナ禍前(19年)よりも6%増加しているが、実質ベースでは4%以上も減少している(図1)。賃金を上回る物価の上昇により、この5年間で日本の家計はかなり貧しくなった。
しかも、家計が保有する1100兆円以上の現金・預金も、インフレで根こそぎ目減りしてしまった。筆者の試算では家計に60兆円ほどの「コロナ貯蓄」が生まれたが、過去2年の物価上昇でそれはおおむね食い潰された。コロナ後はリベンジ消費が盛り上がるはずだったが、その原資となる貯蓄がインフレで消えてしまった。
日銀の「生活意識に関するアンケート調査」によると、家計の「暮らし向きDI(現在の暮らしに「ゆとりが出てきた」と「ゆとりがなくなってきた」の差)」は約2年にわたって低下を続けた(図2)。収入は増えたが、それ以上の物価上昇で想定外に出費がかさんだためである。足元は暮らし向きに回復の動きが見られるが、2年間の累積悪化幅は08年のリーマン・ショック時に匹敵するものだった。
以上を反映して個人消費は低調であり、直近は4四半期連続のマイナス成長である。日本経済は「物価高不況」にある。
改善の動きも少しずつは見えてきた。22年の輸入価格急騰の影響が落ち着いてきた一方、今春闘では賃上げ率が33年ぶりの高さとなった。遠くない将来に賃金上昇率が物価上昇率を上回る、すなわち実質賃金が上向く可能性が出てきている。
輸入コストの価格転嫁による物価上昇ではなく、物価と賃金が影響を及ぼし合って上がり続ける状況を、政府や日銀は「物価と賃金の好循環」と呼んでいる。金融政策の文脈では、これは「2%物価目標の実現」とほぼ同義であり、日銀はそれが見通せる状況になったとして3月にマイナス金利を解除した。ただし、問題が二つある。
第一に、賃金や物価がともに下落するデフレには戻らないとしても、賃金と物価の持続的な上昇ペースにはなお大きな不確実性がある。2%物価目標と整合的なペースでそれらが上昇を続けるかどうかについては、物価・賃金データを今しばらく観察する必要がある。とりわけ、来年の春闘でも十分な賃上げが続くかどうかは重要なチェックポイントである。
第二に、より大きな問題として、賃金と物価がともに上昇するというだけでは低次元の循環にすぎず、それだけで「好循環」と言うのは適切でない。人々の暮らしにとって大事なのは、賃金上昇率が物価上昇率を「どれだけ上回るか」である。つまり実質賃金の上昇率が重要なのである。
そのためには、生産性の持続的な上昇が必要である。国民にとって望ましいのは「実質賃金と生産性の好循環」であって、そこには物価も2%物価目標も金融政策も関係ない。デフレから脱却すれば生産性が上がりやすくなるとは言えず、日本全体の生産性を上げるには別の政策努力が必要である。
具体的にどうすれば生産性が上がるのかについて、残念ながら明確な答えはない。「デジタルを活用すればよい」という単純な話でもない。ただ、高齢化により働き手が増えなくなることは確かなので、企業が国内での成長意欲を失わない限り、人への投資やビジネスモデルの再構築など、生産性を引き上げる創意工夫が出てくると期待できる。したがって、経済政策が持つべき視点は、企業の成長意欲を失わせないビジネス環境を国内にしっかり作っていくことである。
日銀は円安への配慮を
円安の問題にも触れておきたい。円安が常に悪いとは限らないが、2年半で約40円もの円安には、やはり悪影響がある。最大の問題は、円安の恩恵を受ける一部のグローバル企業と、円安の打撃を受ける内需型企業や家計との間に、著しい非対称が生じることである。
多くの主要企業が最高益を上げる一方で、家計が物価高で苦しむという現象は、まさに円安の非対称な効果の表れという面がある。影響の出方がこれだけ非対称だと、円安が全体としてプラスかマイナスかという議論はもはや意味を持たない。円安でも円高でも大幅な為替変動は、それ自体として望ましくないと言える。
非常に難しいのは、冒頭に述べたとおり、今の円安が主として海外の金融政策に起因している点である。それでも、日銀の金融政策がより柔軟に利上げを模索できないのかどうかは、ひとつの論点である。日銀は制度的に「為替の安定」に責任を負っているわけではないが、金融政策が結果的に望ましくない為替変動をもたらす場合がある以上、そこへの一定の配慮は必要である。
その際に障害になるのは2%物価目標である。日銀は、「基調的な物価上昇率がまだ2%に達していない」として金融緩和を継続しているが、今の状況で「物価上昇率をもっと上げたい」という説明に納得できる国民は少ないのではないか。「円安を抑えて物価を安定させてほしい」と願う国民が大多数であるように思われる。
しかし、金利を上げたら上げたで、中小企業や住宅ローンの借り手などに影響が及ぶ。政府がなかなかデフレ脱却宣言を出さないことも、日銀の利上げを難しくしている面があるかもしれない。「円安だから日銀は利上げを」と単純にも言えず、政府・日銀が緊密に連携し、総合的に対応する必要がある。
(門間一夫〈もんま・かずお〉みずほリサーチ&テクノロジーズ エグゼクティブエコノミスト)
週刊エコノミスト2024年7月2日号掲載
物価・金利・円安 国民にとって望ましいのは「実質賃金と生産性の好循環」=門間一夫