老後は貯蓄で十分 地方移住も選択肢 安藤大介/谷道健太・編集部
「老後資金が4000万円必要」。5月上旬にテレビ番組などをきっかけに広がったこのキーワードが、なお波紋を呼んでいる。SNSには「4000万円も用意できるはずがない」との諦めの声が上がり、老後への不安が広がっているようにも感じられる。
こうした状況について「ありえない計算で誤解がある」と指摘するのは、第一生命経済研究所首席エコノミストの永濱利廣さんだ。最新の家計調査に基づき、老後資金を試算し直したところ、不足額は今の貯蓄額で十分にまかなえるという結果だった。
そもそもの「老後に2000万円必要」というのは、2019年に金融庁の金融審議会市場ワーキング・グループが報告書で指摘した内容で、当時も波紋を呼んだ。総務省が公表している17年の家計調査は、無職の高齢夫婦による世帯(高齢夫婦無職世帯)の月額収支は、公的年金を中心とした収入が月約21万円、支出が約26万円で、差し引き月5.5万円が不足するとしていた(図)。これが30年間続くとしてはじき出された不足額が計1963万円で、「老後資金が約2000万円不足する」という根拠になった。さらに、これを基に、年3.5%の物価上昇が20年間続いたと仮定してはじき出されたのが、冒頭の4000万円という数字だ。
一方、最新の23年の家計調査を基に永濱さんが同様の世帯を試算したところ、不足額は月3.8万円に縮小していた。これを30年間続けると不足額は1368万円。仮に日銀が目指す2%の物価上昇が20年間続いたとすると、必要額は2033万円で、「4000万円問題」の半分近くまで減る。23年時点の高齢無職夫婦世帯の平均貯蓄額は2504万円で、「現時点での平均貯蓄額で十分まかなえる計算」(永濱さん)だった。
さらに永濱さんは「そもそも論では、前提となっている高齢無職夫婦世帯は平均2500万円とある程度の貯蓄を持っている。そういう人たちがその生活を維持するための『必要額』であり、その水準を持っていないと生きられないという数字ではない」とくぎを刺す。4000万円という金額が独り歩きしているが、これに踊らされるのは禁物というわけだ。
移住で支出4分の1
とはいえ、「人生100年時代」といわれ、長い老後生活が想定される中、老後資金に不安を感じる人は少なくない。どうすれば生活費を抑えることができるのか。
今、注目されているのが都市部から地方への移住だ。
東京駅から新幹線に乗り、途中で東海道本線に乗り継いで59分。静岡県函南(かんなみ)町の駅から車で15分ほど走った別荘地に、女性(55)は1人で暮らす。約200平方メートルの土地に建つ築30年近い2階建て住宅を約800万円で購入し、約2000万円かけて改装。昨年7月に東京都目黒区から移り住んだ。「東京の自宅を設計したデザイナーに頼み、似た仕様のキッチンを造った」と話し、米国の住宅にあるような大型オーブンで作った料理を振る舞ってくれた。
この日、同町に隣接する静岡県三島市は最高気温34度を観測した。前の家主が設置したエアコンは4台とも故障して使えない。だが、標高400メートルほどの高地に建つ女性の住まいは涼しいとはいえないまでも、東京とは大違いの快適さだった。「昨年はエアコンなしでひと夏過ごせた。朝起きると鳥のさえずりが聞こえるのが気に入っている」
以前は東京の外資系ソフトウエアベンダーにシステムエンジニアとして勤務していた。だが、新型コロナウイルス禍で、業績が悪化した勤務先は人員整理に踏み切った。女性は21年1月、1000万円超の退職金を手にして退職。失業給付が途切れた1年後、生活費を下げるために地方移住を模索し始めた。
「5年ほど前に始めたテニスが近所でできる家をネットで探し、今の場所を見つけた。昔、祖父母が函南に住んでいたからなじみがあることも決め手になった」
東京時代は住宅ローン15万円と地代5万円を含め、毎月の支出は40万円ほどだったが、今は約10万円で済む。自宅の売却益など約4000万円を切り崩して生活費に充てている。
「年間支出を120万円とすると、年金を手にできる65歳までの支出は計1200万円。大きな出費がなければ、その時点で2000万円超が残っている計算になるので、老後は何とかなると思う」
買い物をするには車が要ることは事前に分かっていたが、「月に1、2回、自衛隊演習場から大砲の音が聞こえるのがうっとうしいぐらいで、ほかに不満はない。引っ越してよかった」。
伊藤雄一郎さん(61)もコロナ禍を機に神奈川県の南東端、湯河原町に移住した。20年時点で2人いた従業員と切り盛りしていた会社の経営が急激に悪化し、「開店休業状態になった」。東京都新宿区の自宅マンションを売却し、湯河原町の貸家に1人で住む。毎月の支出は東京時代の約50万円から約10万円に減ったという。
「家賃5万円、水道光熱費7000円、スマートフォン7000円、ガソリン1万円、食費2万円といったところ。外食はほとんどせず、畑を借りて自分で育てた野菜やジャガイモ、狩猟免許を取って仕留めたイノシシやシカの肉、自分で釣った魚などを食べる。読みたい本は図書館で借り、車は軽自動車。無駄金は使わない」
今年1月には湯河原駅から徒歩約10分の住宅地に建つ延べ床面積120平方メートルほどの中古住宅を購入した。若者が集う格安の宿を始めるという。
「フェイスブックで改装を手伝ってくれる人を募ったら、見ず知らずの人も含めていろんな人が来た。業者に頼まず、素人だけで3月に始め、7月上旬に完成。保健所から簡易宿所の営業許可も取れた。10年間は営業するつもりだ」
7月中には貸家を引き払い、簡易宿所の一室を住まいとする予定だ。65歳から受給する国民年金は月5万円程度と少ないが、東京のマンションを売却したことで預貯金は数千万円あるという。
「ポリシーは“死ぬ時は資産ゼロ”。20年ほど前に離婚し、家族がいないから好きなように暮らしていくよ」
「介護施設勤務」も選択肢
人生をリセットできる移住は、生活費を下げるのみならず、新たな生きがいをもたらしてくれる。だが、誰もがこうした移住ができるわけではない。経済ジャーナリストの荻原博子さんは「定年退職後は悠々自適に働けばいい。資格を取っておいて、好きなことを仕事にして暮らす働き方もできる」と提案する。
例えば、旅行が好きな人なら、旅行業務取扱管理者など旅行関係の資格を、ネイルサロンに関心がある人は技能検定を取得するなど、資格を取って準備をしておけば、それまでと全く違った第二の人生を踏み出すことも可能だ。
荻原さんのお勧めは、介護施設での勤務だ。「介護施設は横のつながりがあるので、働くと内部の情報が分かる。自分の両親や自分が入ることを視野に、コネクションを作り、情報が入ってくるようにしておくのもいい」
「人生100年時代」。第二の人生を視野に、今から準備をしておくことで、将来がより豊かなものになりそうだ。
(安藤大介〈あんどう・だいすけ〉/谷道健太〈たにみち・けんた〉編集部)
週刊エコノミスト2024年8月6日号掲載
老後資金 「老後資金4000万円」など無縁 静岡や神奈川で満喫する第二の人生=安藤大介/谷道健太