とばっちりを食うスイス EUは枠組み協定受諾に圧力=金子寿太郎
スイスは、欧州の地理的な中心にありながら、欧州連合(EU)に加盟していない独自の立ち位置にある。政治体制は大統領を元首とする連邦共和制であるものの、重要な案件は国民投票によって直接民意を問うことが多い。EUとの関係についても、1992年の国民投票でEU加盟の事実上の前段階である欧州経済地域(EEA)加盟を諮ったが、スイス国民はこれを否決した。
もっとも貿易に関してはノルウェー、アイスランドおよびリヒテンシュタインとともに欧州自由貿易連合(EFTA)を構成するほか、市場アクセス、政府調達、輸送、税制など多種多様な分野で計120以上の個別協定を積み重ねている。こうしたアプローチにより、EU法との整合性を高め、主権を維持しつつ、EUと緊密な関係を築いてきた。
スイスは、高度に発展した機械産業や金融セクターを擁するものの、小国であるためEU単一市場へのアクセスが経済運営上欠かせない。貿易と直接投資にかかる両者の関係は、緊密である(表1)。
特に金融サービスについては、多くの銘柄がEU・スイス双方の株式取引所に上場するなど結び付きが強い。こうした事情もあって、スイスはこれまでEUの政策執行機関である欧州委員会から規制・監督に関するEUとの同等性認定を数多く受けている(表2)。
ただ、EUはかねてより「スイスが単一市場をつまみ食い(いいとこどり)している」と批判。主要な分野における経済関係について、枠組み協定として包括的に規定し直すことを求めてきた。枠組み協定の締結に向けた交渉は2014年5月に開始した。
EU加盟への布石
枠組み協定とは、72年締結のEFTAを今日の情勢に合うよう見直すとともに、既存の個別協定のうちEU市場アクセスにかかる一部を統合することで、スイスとEU両法域の関係を規定するルールの簡素化を図るものである。とはいえ、両法域の整合性を強化するべく、単一市場ルールの変更への自動的適合、銀行などに対するEUの国家支援ルールの受容、EUへの国内サービス市場の開放、人の移動の自由やEU市民の権利の保障、紛争解決にかかる欧州司法裁判所(ECJ)の管轄権などさまざまな要求がスイスになされており、実質的にスイスのEU加盟へ向けた布石と捉えられている。
枠組み協定案については、スイス連邦政府(主に外務省)と欧州委員会の間で事務方合意がすでに成立している。とはいえ、スイス内閣(連邦参事会)は、特に人の移動の自由およびEU市民の権利の保障に関して問題が残っているとして、これを承認しない構えをとっている。具体的には、賃金・労働条件にかかる保護措置の見直しにより、EU出身の労働者がスイス国内の給与や待遇の水準を引き下げる要因になるのではないか、と懸念している。
スイス連邦議会でも、労働組合を支持基盤とする左派政党が枠組み協定締結に強く反対するようになった。これに伴い、スイス国民の間でも不安が広がっているため、仮に枠組み協定案が連邦議会で批准されたとしても、最終的には国民投票にかけられることが確実視されている。こうした状況にもかかわらず、スイス側交渉官が反対派の閣僚などに対して枠組み協定を擁護しているようにみえないことが、EUのスイスに対する不信感を高めている。
株式取引を巡る攻防
EUは枠組み協定が批准されない限り、スイスに新たな同等性を認定しない基本方針を14年に決定した。しかし、その後も交渉が進展しないことに業を煮やし、17年12月、第2次金融商品市場指令(MIFID2)に基づくスイスの株式取引所にかかる規制の同等性認定を18年末で取り消すと公表。同等性認定が取り消されれば、SIXグループが運営するスイス証券取引所などはEU銘柄を合法に取り扱うことができなくなる。
チューリヒは欧州でロンドン、フランクフルト、パリに次ぐ取引規模を持つ有数の金融センターである。スイスの主要な株式インデックスには多くのEU籍企業が含まれている。したがって、株式取引所にかかる同等性認定はスイスが受けているあらゆる同等性認定の中でも特に重要なものだ。
もっとも、スイスがEUルールとの整合性を損なうような株式取引所ルールの変更を行った事実は認められない。EUは、スイスに枠組み協定の締結を促すためのツールとして、株式取引所にかかる同等性認定を利用している。
もともとEUにとって、同等性認定は「一種のギフト」として一方的に与えているものである。したがって、EUはこれを撤回するのも自らの裁量と捉えている。これに対し、スイスも昨年6月にはEU内の株式取引所によるスイス銘柄の売買を禁止できる規制を施行することで抵抗する構えを見せた。このため、EUとスイスの間でクロスボーダーの株式取引を行っている金融機関や投資家の間に激震が走った。
結局、18年12月7日に、スイス連邦政府が枠組み協定案を公表した上で連邦議会、州(カントン)政府等関係機関と枠組み協定に関する協議を開始する方針を明らかにした。これを受けて、同12月20日にEUが半年間の同等性認定の延長を決定し、ひとまず市場の混乱は回避されることとなった。
英国への恨み節
EUは、多数の個別協定に基づくスイスとの複雑な法的関係を外部環境の変化などに応じて逐次見直していくことの事務コストが不当に高いと感じているほか、スイスは互恵性を欠いた形で単一市場を一方的に享受していると批判してきた。加えて、16年における英国の国民投票以降は、英国がブレグジット後に「第二のスイス」を目指すことを警戒し、意図的にスイスに厳しく対処している印象がある。
例えば、一度双方の事務方で合意した協定案については決して再交渉に応じない、という点にこうした方針が表れている。また、ブレグジットに伴う域内経済や国際的プレゼンスの縮小を少しでも補うべく、スイスの取り込みを加速させている面もうかがえる。
今年2月、スイスは英国とブレグジット後も現在と同様の経済関係を維持するための協定を締結した。ただし、域外国(第三国)として長年EUと厳しい交渉を続けているスイスからすれば、英国は軽率な判断から不用意に困難を招いたように映る。加えて、英国がEUを怒らせた結果、自らの対EU関係が悪化のあおりを受けているとも感じている。仮にブレグジットの決定がなければ、小国のスイスはこれほどの枠組み協定締結圧力を受けることなく、まだしばらくの間は単一市場へのアクセスをEUに許容されていたのではないか、との思いである。
今年は、スイスとEU双方が重要な選挙を控えている。このため、互いにやすやすと妥協することが難しい政治環境にあるほか、新たな指導部の顔触れによってこれまでの交渉スタンスが大きく変わるような不確実性もある。スイス側には、当初予定どおりブレグジットが今年3月末に実現していれば、それ以降はEUがスイスに対する態度を軟化させるのではないか、という希望的な観測があった。だが、ブレグジットの期限が繰り返し延期されるのに伴い、そのような期待は急速にしぼんでいる。
EUにとって、「単一市場における人・物・資本・サービスという4要素の移動の自由」は不可分であり、一部要素のつまみ食いは受け入れられないため、スイスに対して速やかに枠組み協定案を採択するよう圧力を加え続けている。株式取引所にかかる同等性認定の延長措置の失効を6月末に控え、同等性認定が再度延長されるのか否かを巡り、スイスの金融関係者を中心に緊張が高まっている。
日本への示唆
ブレグジットのほか、国際秩序を軽視するトランプ米政権や中国の台頭を背景に、EUは総じて第三国との関係に慎重になっている。特に金融サービスについては、3月に欧州監督機構(ESA)レビューと呼ばれる同等性評価制度の厳格化を含む法案が関係立法機関の間で合意に至るなど、保護主義的な色彩が急速に強まっている。
翻って日本の場合、スイスに比べて地理的に離れていることもあって、金融リスクの伝播(でんぱ)(コンテージョン)が相対的に生じにくいと考えられている。加えて、今年2月に発効した経済連携協定(EPA)の金融規制に関する協力を定めた付属書にのっとり、緊密な情報共有がなされることになっているため、同等性認定が突然取り消されるような事態は回避できると期待できる。
そもそもEUとスイスでは、経済規模が大きく異なるほか、貿易や投資の関係をみても、スイスのEUに対する依存度の高さが際立っており、このことが両国の交渉力の差として反映されている面もある。
とはいえ、EUがスイスに交渉上の圧力を加えるために同等性評価を政治利用している点は日本にとっても重要な示唆が含まれている。日本は今年の主要20カ国・地域(G20)議長国として、金融規制に関しては、国際的な市場の分断の抑止を課題に掲げている。EUとスイスの金融市場の連結性が損なわれることは、クロスボーダーでの取引コストの上昇や流動性の低下を通じて、金融システムの効率性や安定性を阻害する。日本は多角的な見地からEUとスイスの交渉状況を注視していく必要があろう。
(金子寿太郎、国際金融情報センター・ブラッセル事務所長)