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週刊エコノミスト Online ワイドインタビュー問答有用

ミスター・ラグビー=松尾雄治・スポーツ評論家「釜石でのW杯、本当にかなった」/773

撮影=蘆田 剛
撮影=蘆田 剛

 明治大学や新日鉄釜石で活躍し、抜群のプレーセンスで多くの人を魅了した元ラグビー日本代表、松尾雄治さん。日本初開催のワールドカップ(W杯)に去来した思いや、第二の人生の歩みを聞いた。

(聞き手=大宮知信・ジャーナリスト)

「釜石でW杯を、と言い続けていたら、本当にかなった」

「バーはもうからないけれど、お金のことを考えなくなったら楽しさと幸せが同時に来た」

── 今年9~11月に日本で初めて開催されたラグビー・ワールドカップ(W杯)は盛り上がりましたね。

松尾 素晴らしかったね。日本代表は我々の時代とはレベルの違う試合を展開し、「日本のラグビー、ここにあり」と示してくれました。日本代表の選手たちはメンタル面でも強くなりましたね。「我々が絶対勝ちます」なんて平気で言いますから。それだけ練習をして期待に応えられる自信がある、ということなんでしょう。

── 日本は初めてベスト8に進出しました。なぜここまで強くなったんでしょう。

松尾 パワーが違います。僕らの時代にも足が早く、ボールを持ったらバーッと走れる選手はいくらでもいたんですよ。それが、今はパワーでも互角に渡り合えるようになりました。相手チームとぶつかるフォワード(FW)が、五分五分とか六対四でボールを獲得できる。昔は七対三くらいで競り負けていたのが、今はフォワードがどんどんボールを取ってくれるから、ボールを回して回して点を取れるラグビーになったんです。

故・平尾さんと名勝負

── 東日本大震災の被災地、岩手県釜石市でも試合が行われました(9月25日・フィジー対ウルグアイ戦。10月13日のナミビア対カナダ戦は台風のため中止)。社会人時代に所属した新日鉄釜石ラグビー部(現・釜石シーウェイブス)の本拠地です。

松尾 感慨深かったですね……。釜石でW杯の試合を開催するというのは、誰が考えたのかねぇ。ラガーマン仲間の総意というか、関係者に1試合でもいいから釜石でやろうという機運がありました。それに向けて、ラグビーの仲間たちが素直な気持ちで取り組んだのではないでしょうか。

── 松尾さん自身も2012年3月、ラグビーを通じて釜石の復興を支援しようと、新日鉄釜石OBらとNPO法人「スクラム釜石」を立ち上げるなど、W杯の釜石開催に向けて尽力していました。

松尾 僕もいろんなところで話をする機会があるたびに、釜石でW杯をやりたいと言っていたんですよね。言い続けていると、願いはかなうと言われますが、本当にそうですね。

── 神戸製鋼(現・神戸製鋼コベルコスティーラーズ)で活躍した故・平尾誠二さんも、「W杯を釜石で」と言っていました。

松尾 神戸も1995年の阪神・淡路大震災で被災したし、釜石で歴史に残るメモリアルマッチをやりましょう、みんなで盛り上げる運動をしましょうよ、と。そういうラグビーの仲間たちの温かい気持ちによって、W杯も実現した。大きなこともコツコツ取り組んでいれば実現する。本当にコツコツということなんですね。

── それだけに、平尾さんが16年10月、53歳の若さで亡くなったのは、ショックだったのでは。

松尾 それはもう、本当にそう。日本ラグビー協会の会長など、彼が日本のラグビー界の頂点に立って、それをみんながサポートする。そういうことを考えていた時代もありました。神戸製鋼のジャージーは新日鉄釜石と同じ赤。釜石が日本選手権で7連覇(78~84年度)した後、平尾さんの神戸製鋼も7連覇(88~94年度)した。どちらも大震災に遭い、境遇はそっくり。だから、釜石と神戸製鋼って、すごく仲がいいんです。

ラグビー日本選手権で同志社大学を破って7連覇を達成し、胴上げされる松尾さん。当時は選手と監督を兼任し、この試合を最後に第一線から退いたていた=1985年1月
ラグビー日本選手権で同志社大学を破って7連覇を達成し、胴上げされる松尾さん。当時は選手と監督を兼任し、この試合を最後に第一線から退いたていた=1985年1月

「伝説のラガーマン」と呼ばれる松尾さん。身長173センチと恵まれた体格ではないが、明治大学4年生だった76年には、司令塔役のスタンドオフ(SO)として明大ラグビー部を悲願の日本選手権初優勝に導く。大学卒業後は新日鉄釜石で日本選手権7連覇を含む優勝8回を達成。新日鉄釜石時代の日本選手権では、平尾さんが率いる同志社大学と数々の名勝負も繰り広げた。

独特な父の「信念」

── 大学でラグビーをしていたお父さんの影響で、ラグビーを始めたそうですね。

松尾 一つのことをやり続ければ、何とかなるという信念の持ち主でした。うちのオヤジは勉強が大嫌いでね。勉強をするのは悪いことをするやつだ、と言うんです。勉強はするな、運動をやっていればいい、という人でした。勉強して素晴らしい人間になった人もいるけれど、お前たちには無理だと。何も知らないまま大人になれ、そうすれば最高にいい大人になれるって。

── 今の時代に聞いたら、卒倒しそうな話です(笑)。

松尾 オヤジは「人間が生きていく上で一番大切なのは勘だ」と言うんです。「動物的な勘がすべてだ」と。鉛筆を持って勉強をすると、その勘がなくなっちゃうんだって。だから子どもの頃はラグビーばかりやっていて、学校の授業にもほとんど出なかった。ところが、成城学園(東京都世田谷区)の高校時代、先生に「授業には出てこないのに、ラグビーの練習の時だけグラウンドにいる。それはおかしい」と。

── 確かに、先生がそう言いたくなる気持ちも分かります……。

松尾 オヤジは「俺の子どもはラグビーの練習だけやらせる」と言い張るんだけど、そんな理屈は学校には通用しない。結局、先生と大ゲンカして、高校1年生の時に退学です。「これからどうしよう」と考えていると、オヤジの知人が「明治大学ラグビー部の北島忠治監督の本に『来る者拒まず、去る者追わず』と書いてある。雄治を連れて先生のところへ行ってこい」とオヤジに言って。

── それが、北島監督との出会いだったんですね。

松尾 ラグビー部のグラウンドは八幡山(東京都杉並区)にあり、北島先生は「毎日八幡山へ来い。ラグビーをやらせてやる」と。最初は大学生と一緒に、ボール磨きとかグラウンド整備をやっていたんですが、高校中退のままじゃどのチームにも所属できないし、試合にも出られない。そこで、北島先生がラグビー強豪校の私立目黒高校(現・目黒学院高校、東京都目黒区)に入れるよう頼んでくれたんです。卒業後は明治大学に拾ってもらい、僕にとって北島先生は人生の恩師ですよ。

── 現役時代は、抜群のプレーセンスとリーダーシップを発揮し、“ミスター・ラグビー”と言われました。

松尾 そういう言葉はどうも……。ラグビーは15人でやるスポーツ。松尾一人が特別何かしたわけじゃない。野球と違って、ラグビーは個人の成績が評価されること自体、あまりないし。だから、新日鉄釜石で7連覇を達成した後の85年、岩手県から県民栄誉賞を受賞した時も、僕一人だけなんておかしいから、「全員だったら」と伝えて、メンバー全員でもらったんです。

── 今年の「新語・流行語大賞」でも、ラグビー日本代表のスローガン「ONE TEAM」(ワンチーム)が年間大賞に選ばれました。

松尾 ラグビーで強くなるのは、誰かの判断にみんなが付いていくチーム。強い会社、強い組織でも、必ずと言っていいほど、1人の「やってみよう」という意見に周りが「そうだね」と付いていきます。それでダメだったら、やり直せばいいんです。会社も、そういう雰囲気がないとダメだと思いますよ。

たけしさんの支え

 左足首などのケガを抱えて85年、31歳の若さで現役引退した松尾さん。スポーツキャスターに転じ、気さくな語り口で人気を集めた。その矢先の92年、ポーカーの賭博容疑で現行犯逮捕。不起訴となったものの、世間の批判にさらされた。そんな松尾さんに手を差し伸べたのが、親交のあったタレントのビートたけしさんだった。松尾さんはたけしさんの所属事務所「オフィス北野」に入り、タレントとして活動を再開する。

── 警察沙汰になった時は大変でしたか。

松尾 たまたま僕らが友達とトランプをやっているところに、警察が別件の捜査でやってきたんです。賭け事を捕まえにきたわけじゃない。ところが、何も見つからず、僕らを見て「これは賭けていませんよね」と聞くので、「賭けないでこんなことをするヤツがいるか」と言ったら、御用ですよ。

── 明大の先輩でもあるたけしさんが、18年3月にオフィス北野を退社すると、松尾さんも独立する形で後に続きました。

松尾 たけしさんが「辞めるぞ」というから、「じゃ俺も」って。一番先に辞めちゃった。裏切り者って言う人もいたけど、たけしさんが「落ち着いたら、また何かやろうぜ」と言ってくれて。そしたら僕のマネジャーも一緒に辞めると言うんで、仕方がないから今は講演会をバンバンやったりして、マネジャーのために老体にむち打って頑張っているんです(笑)。

── 成城大学ラグビー部の監督(04~12年)を経て、14年9月には 東京・西麻布に会員制のバー「リビング」を開業し、オーナーとしてカウンターに立っています。

松尾 ラグビーに関しては、すべてやり尽くしたと思っていて、どうやって第二の人生を生きるのが正しいのかなと考えました。僕の人生は変なオヤジに作られたようなもので、そのオヤジもおふくろも死んで、自分も還暦を迎えて……。ラグビーとは縁を切ろうかなと思ったんですが、いろいろ悩んだ末に、今までお世話になった人たち、友達や仲間がみんな集まって楽しく語り合える場を作ろうと思ったわけです。

「飲み屋の司令塔」に

オーナーを務めるバー「リビング」のカウンターで 蘆田 剛撮影
オーナーを務めるバー「リビング」のカウンターで 蘆田 剛撮影

── お客さんはどんな人が多いんですか。

松尾 いろんな人が来ますよ。政治家とか歌手とか芸能人とか、先日は有名な演歌の作詞家も来ました。たけしさんは最初の頃は来ていたけれど、最近は来ないね。かみさんがうるさいのかな。

── 選手時代も司令塔でしたが、今はお店の司令塔ですか。

松尾 僕のラグビーのポジションは、周りに常に気を配らなければできない。店でも常に周りを見て、あそこはウイスキーが空いてるな、とか、よく気が付くんです。これが飲み屋のSO(笑)。自分で最近、この仕事が合っているのかな、って思うようになってきました。みんなに頭を下げて、いらっしゃいませ、ありがとう、って言える。人間・松尾が本当に素直になれる場所だと思っています。

── お店の経営は?

松尾 もうかるわけがないじゃないですか。6000円で飲み放題、食べ放題だから、大変ですよ。赤字じゃないけど、ギリギリでいいんです。従業員に給料が払えて、店が回っていればそれで十分。売り上げが減ったら僕が埋めるだけ。お金のことを考えなくなったら、楽しさと幸せみたいなものが同時に来ている気がします。

── 今後のラグビー界とのかかわりは?

松尾 自分が体を動かしてやるということはないですね。体力的に監督は無理だし、僕は日本ラグビー協会の役員じゃないので、側面から意見を言うぐらいしかありませんね。これから協会には、いろんなサジェスチョン(示唆)をしていこうと思っていますよ。いろんな場を通じてね。悪口かもしれないけれど、ハハハ。


 ●プロフィール●

まつお・ゆうじ

 1954年、東京都出身。立教大学ラグビー部OBの父親の影響でラグビーを始める。強豪の私立目黒高校(現目黒学院高校)から明治大学に進学し、76年には日本選手権で初優勝 。同年に新日本製鉄(現・日本製鉄)に入社し、新日鉄釜石ラグビー部(現・釜石シーウェイブス)で日本選手権7連覇。85年に現役引退。日本代表キャップ数24。2004~12年、成城大学ラグビー部の監督。東京・西麻布に14年9月、会員制バー「リビング」開店。

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