迫真ルポ 苦悩続く福島原発事故の被災地=高橋弘司
絶望的な人口回復率 復興へもがき続ける人々=高橋弘司
<原発事故10年 翻弄される福島>
2014年から学生らを引率して福島第1原子力発電所事故の被災地へ取材合宿を続けてきた。昨年は新型コロナウイルスの影響で合宿を断念。今年3月中旬、この10年を振り返ってもらおうと、これまで取材してきた被災地の住民らを一人で訪ねた。(震災10年 翻弄される福島)
大津波で壊滅的な打撃を受け、南北で寸断されてきたJR常磐線がようやく全線開通したと聞き、まずは福島県東部を目指した。午後8時40分過ぎ、福島第1原発の北約5キロにある双葉郡浪江町のJR浪江駅。降りたのは私だけだった。駅は無人で自動改札を通り、外に出る。駅前にはタクシーもおらず、人けがない。小さなトランクを引きずりながら、予約したビジネスホテルまで歩く。
人口回復率7%の町
約2万1000人の全町民が避難を強いられた町は、震災と原発事故から6年たった17年3月、立ち入り制限が解除された。しかし、住民の帰還は国や町の期待通りには進まず、現在も約1500人が暮らすだけだ。震災前の住民登録者に占める居住者の割合(人口回復率)は約7%にとどまる。
地震で被害を受けた街中の建物は大半が解体され、2年前に訪ねた当時と比べ、明らかに更地が増えていた。駅からビジネスホテルまでの20分余、駅前通りは街灯以外の明かりがほとんどなく、誰一人すれ違わない。見回りのパトカーが私を追い越して行った。ホテルに着き、遅い夕食を取ろうとしたが、ホテル内のレストランや3店あるコンビニのうち2店は営業時間が終わっていた。午後11時まで開いているコンビニまで歩くこと約20分、ようやく夕食にありつけた。この町はまだ「非日常」の世界にあった。
競り再開の矢先の「汚染水」
久しぶりの浪江町で見ておきたいものがあった。請戸(うけど)漁港で再開した魚の競りだ。2年前に学生たちに話をしてくれた漁師の一人、Iさんが請戸漁港の市場の完成を心待ちにしていると明かし、「また来てくれたら、ハチマキして頑張ってっから」と笑顔で話していたからだ。
大津波で請戸漁港の97艘(そう)の船は大半が破損し、漁ができる船はわずか6艘に激減した。だが、自らの船が真っ二つに割れ操業できなくなった永野久芳さん(故人)らが先頭を切って船を新造すると、若い漁師も後に続き、今では28艘に増えた。昨年1月に完成した市場を訪ねると競りが再開され、漁港はかつての活気を取り戻しつつあった。
だが、明るい兆しが見えた漁師らを悩ませるニュースがあった。福島第1原発の汚染処理水問題だ。処理水に含まれる放射性物質トリチウムは技術的に除去が難しく、敷地内のタンクで保管してきたが、その数は1000基を超えた。22年夏には満杯になる見通しで、政府は今年4月、汚染処理水を薄めて海洋放出を始める方針を決めた。
Iさんは「放出に反対」と明言し、「この10年間苦労して水揚げを増やしてきた。さらに何十年も汚染処理水が放出されると、風評被害は計り知れない。いつまで苦しめばいいのか」と話し、「トンネルの先が見えない」と嘆いた。放出決定の後、Iさんに電話すると、「トリチウム水に害がないことと消費者の心理は別だ」と話し、政府や東電から具体的な風評被害対策が示されないため、「信頼できない」と批判した。
教育再生に向けた格闘
浪江町唯一の教育施設「なみえ創成小・中学校」は18年4月開校後、丸3年が過ぎた。開校当時は小学校長、今は中学校長を務める馬場隆一さん(58)が振り返る。「この3年間、手探りでした。『地域とともにある学校づくり』という目標は実践できたと思いますが、当たり前の学校生活ができないのは心残りです」。
震災前、町には小学校6校、中学校3校があり、約1700人の子供たちがいた。しかし、原発事故で一斉避難を強いられ、子供たちは避難先に散り散りになった。代わりに帰還住民や復興事業でやってきた住民の子弟のため、小・中学校を1校に併合して新設されたのが「なみえ創成」だった。わずか10人(小学生8人、中学生2人)からのスタートだった。当初は放射線への不安払拭(ふっしょく)に腐心した。敷地周囲に植えられていた樹齢30年以上の桜の木は樹皮の線量が高いため、全て伐採し、校庭は全面人工芝にした。給食用の食材は今も全て事前に線量を測定している。
子供の人数が少ないハンディを克服しようと、花壇の手入れ、放課後の交流事業、運動会などを通じ、地域住民が学校運営をサポートする態勢が整った。子供の数も今年度は31人(小学生22人、中学生9人)に増えたが、やはり一般的な学校と比べて子供の人数が少ないことに変わりない。運動部の活動などには限界があり、教師が子供の相手をするしかないのが実情だ。
次世代へ託すしかない
放射能汚染で生業を奪われてしまったのが、田村市などで原木シイタケを生産してきた坪井哲蔵さん(72)や宗像(むなかた)幹一郎さん(70)だ。16年以来、何度か学生たちの聞き取り調査に応じてもらった2人に再会した。
福島県東部の阿武隈山地は震災前までは、贈答用の高級シイタケの生産地だった。この地で採れる天然のナラの木を伐採、90センチほどに裁断した原木(ホダ木)に植菌してできたシイタケは肉厚で香り高いと好評だった。
しかし、原発事故でシイタケ栽培の山林に放射能が降り注ぎ、避難指示が解除されて戻ると、坪井さんが育てていた約7万本のホダ木は朽ちかけていた。原発から20キロ圏内にある坪井さんの裏山は線量が高く「出荷制限地域」に指定された。「40年間、人生を懸けてきた仕事を突然奪われ、悔しいの一言。先行きは厳しいが、諦めたくない」という。
宗像さんの裏山は原発から40キロ圏内で、比較的緩やかな「出荷自粛地域」だ。このため除染済みのホダ木2000本を他県から取り寄せ栽培を試みるなど模索してきた。だが、そのホダ木から安全基準値の100ベクレルを超える放射性物質が検出され、全てが無駄になった。「震災前はお得意さん70〜80軒向けに作っていた。もう一度、それをやってみたいが、年齢のこともある。作り始めて軌道に乗るのに4~5年かかる」。しかし、2人は諦めない。「もし、自分たちの時代には無理でも、次の世代が原木シイタケを作れるよう、山の再生だけはやっておきたい」と口をそろえた。
「破滅」した原発城下町
10年たっても住民が1人も帰還できない双葉町を初めて訪ねた。JR双葉駅前の通りをまたぐように、かつては「原子力 明るい未来のエネルギー」という巨大な原発広告塔(縦約2メートル、長さ約16メートル)が立っていた。
この標語を考案したのは当時、小学校6年生だった大沼勇治さん(45)。避難先の茨城県古河市から一時帰宅した大沼さんに、町を案内してもらった。
大沼さんが小学生の時に町が公募した標語が学校の宿題で出され、大沼さんは優秀賞を取った。「田舎の双葉町が嫌だった。原発ができれば、仙台のような映画館や大きな駅ビルがある町に生まれ変われると信じていました。だから賞をもらって、誇らしかった」と振り返った。町は巨額の電源三法交付金などでうるおい、「原発城下町」の利益を享受してきた。
だが、福島第1原発事故で全てが変わった。取るものも取りあえず避難した双葉町民らは事故から4カ月後、防護服姿でマイクロバスに分乗し、町への一時立ち入りを認められた。大沼さんが乗ったマイクロバスが原発広告塔の下を通った際、誰かが「あれ……」と指さした。車内がざわついた。その標語を考案した大沼さんは黙ってうつむいた。「みっともないというか、屈辱的な気持ちでした」。
だが、大沼さんは次第に原発広告塔の存在を直視するようになった。広告塔の前に防護服姿で立ち、標語の一部「明るい」の部分に、「破滅」と書いたボードを重ね、妻に写真を撮ってもらった。その写真をあしらった特製看板を広告塔があったそばに立てた。看板の一節にこうあった。「ああ、原発事故さえ無ければ 時と共に朽ちてゆくこの町 時代に捨てられてゆくよう」。そこから50メートルほど先の古びた民家は屋根が大地震で大きく傾いたまま、放置されていた。
15年に町が広告塔を撤去すると知り、大沼さんは保存を呼び掛ける署名活動を始めた。集まった約7000人分の署名を町に提出した。撤去は実施されたが、別の場所で保存は約束できた。昨年9月、「東日本大震災・原子力災害伝承館」が開館したことで、その広告塔が再び、注目されることになった。伝承館内部には今、かつての看板の様子を伝える写真が展示されているだけだ。だが、大沼さんが「現物を展示してこそ、意味がある」と主張し続けたことで、今年3月下旬、ようやく標語のアクリル板部分が1階の屋外テラスに展示された(写真)。
そのニュースを聞き、電話すると、大沼さんからは「屋外にポンと置かれたままで、『負の遺産』を伝えるというには恥ずかしい展示の仕方」と手厳しい感想が返ってきた。だが、大沼さんは「あの広告塔があったから、故郷に向き合えた。あの標語を考えた『生き証人』として、町の歴史を伝えていきたい」とも語った。
福島県東部の被災地の人々は今も、放射能汚染に翻弄(ほんろう)され、原発事故の災禍を乗り越えようともがき続けていた。
(高橋弘司・横浜国立大学准教授、ジャーナリスト)