小説 高橋是清 第154話 高橋内閣の船出=板谷敏彦
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(前号まで)
原敬首相暗殺により高橋是清内閣が発足した。日銀理事の深井英五はワシントン軍縮会議に続きジェノヴァ国際経済会議に参加するため、ニューヨーク港を出帆してロンドンへ向かった。
少し時間を戻す。大正10(1921)年11月12日、是清が内閣総理大臣就任の内示をもらって、明日が就任式という夜のことだ。
大蔵省書記官だった津島寿一は、首相ではなく兼務する大蔵大臣としての是清からいくつか決裁を仰ぐために赤坂表町の是清の屋敷を訪ねた。
津島はこの時33歳、第二次世界大戦後に、戦前の日本の外債処理一切を任された財務官僚である。
就任式前夜
是清は書斎に続く2階の居間で、いつもより早く床に入って吸入器を使っていた。
津島が必要な決裁をもらって帰ろうとすると、是清は床に入ったまま津島を見るでもなく、まるで自分に言いきかせるがごとく述懐談を始めた。
「自分は、君も知っているとおり、原総理に大蔵大臣を辞めたいと申し出ていたほどなのに。それは実現しないで、今は逆に総理を引き受けることになった。これは、まるで夢のようなことだ」
すでに深夜。是清が言葉を止め、息をつくと、屋敷全体が深い静寂に包まれた。
「人生というものはどうなるか全く見当がつかない妙なものだ。若い時からのことをふりかえって見て、変転極まりない人生を送った。しかし、自分は人のため、国のために尽くすという気持ちだけは一貫して来たつもりだ」
そして是清は津島の前で、それまでの人生をとうとうと語り始めた。幕府お抱え絵師の私生児として生まれ、すぐに養子に出されたこと。米国では年季奉公で奴隷のように扱われたこと、帰国をすれば仙台藩から捕縛されそうになったこと。
しかし肝心なことは、こうした経験のどれもが不幸ではないことだった。絵師の実父とは長い付き合いがあったし、養子に出された先ではおばば様と出会い大事に育てられた。幼少期に横浜で知り合ったアラン・シャンドとは今でも良い関係が続いている。
薩摩の森有礼との出会い、彼を通じて知り合った生涯の友である前田正名、前田はこの年8月に亡くなった。生きていれば総理大臣の職を是非受けろと励ましてくれたに違いない。
ペルー銀山で失敗はしたが、そのおかげで川田小一郎日本銀行総裁や松方正義と出会い、日露戦争のファイナンスを任された。そしてアメリカではヤコブ・シフという得難い親友を見つけた。
自分は何と幸運に恵まれてきたのだろうか、偶然めぐりまわってきた総理大臣の役職であるが、自分は全身全霊をかけて全うしたい。
是清は津島に、そう静かに語った。
この15年後の2・26事件の直後、津島は、まさにこの部屋を見て、是清が言った「人生はどうなるか、全く見当がつかない」という言葉をかみしめることになる。
現在、この部屋の建物は小金井市の江戸東京たてもの園に残されている。
* * *
翌…
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週刊エコノミスト
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