小説 高橋是清 第156話 小泉策太郎=板谷敏彦
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(前号まで)
大隈重信に続き山県有朋が逝去する。世界的な軍縮の風潮を追い風に、陸海軍改革を骨子とする法案が衆院を通過するが、政友会内部の対立が露呈し不協和音が広がる。
大正11(1922)年5月2日、第45回帝国議会も閉会し1カ月ほど、是清は閣議を開いた。
明治憲法下での首相の権限は、現在の首相に比べると著しく弱い。国務大臣の任免権は首相にはなく天皇の大権である。各国務大臣は個別に天皇に対して輔弼(ほひつ)責任を負うものであって、首相は単に国務大臣の首座というに過ぎなかった。
したがって国務大臣の中に内閣に背く者があっても首相には更迭する権限はなく、内閣総辞職かあるいはその大臣の「自発的辞職」を待つ他なかった。
首相の是清、横田千之助を中心とする総裁派グループは、中橋徳五郎文部大臣と元田肇鉄道大臣を更迭し、当時台湾総督で帰京中の山県系官僚田健治郎を大蔵大臣として入閣させるべく工作していた。田は貴族院にも影響力がある。
仏像鑑賞会
さて閣議である。是清は内閣改造のために閣僚全員に辞表の提出を求めた。ところが中橋、元田にすればその意図は、自分たちはクビということがわかっているから容易に納得しない。
「首相、あなたは、世間では放漫財政の非難を浴び、党内では脱線居士と呼ばれていることをご存知か。あなたこそ辞めるべきではないか」
中橋の意見に大幹部である山本達雄農商大臣なども同調したものだから、是清はにわかに政友会の分裂が心配になって自分の方から折れてしまった。かくして内閣改造は取りやめになってしまった。
そして、節操のない話だが呉越同舟とばかりに、総裁派も反総裁派も一緒になって、とりあえず和解の宴(うたげ)を派手に張った。
「一同賑やかに会同して乾杯する、政友会万歳という風情だ。何が和解か、何がめでたいか」
これにあきれかえったのは、策動の陰にこの男あり、「政界の策士」と呼ばれた小泉策太郎である。小泉はこの騒動を傍観していて、是清のから騒ぎに、くだらないから自分ももう政治家稼業も潮時かと考えていた。
そんな頃、小泉は政治家渡辺千冬子爵から宴席に招待されたが行けなかったので、後日詫(わ)びに訪れたことがあった。
「君が欠席した宴席では話題が仏像の話になってね、君が所蔵している運慶作『愛染明王像』の話になった。すると首相の高橋が、仏像に興味津々で、ぜひ君の仏像を見たいと言うのだよ」
小泉は首相で子爵でもある高位の是清とじっくりと話したことはなかった。
そこで小泉は自邸で「仏像鑑賞会」を開催して、政友会の幹部連中を呼んだ。是清に野田卯太郎、床次竹二郎などの面々である。
この時小泉は初めて畳の上できちんと是清と話し、久しぶりで親戚の長者に会ったような印象を受けた。脱線居士だとばかり思っていた是清のことをすっかり気に入ったのである。
「自分にも仏像の収蔵があるから、一度見てくれ」
小泉が是清の誘うままに赤坂表町の屋敷を訪ねると、応接室の書画調度、邸宅の結構、庭園の模様など、小泉がそれまで知り得たどの政治家にもない雅致がある。
「この男だ!」
小泉は自分の政治生命を是清にかけてみることにした。ただし是清は頑固者でもあると聞く、小泉の意見を素直に聞くような男でなければ仕える意味がない。
小泉はあらためて一人で是清を訪ねると、こう切り出した。
「先ずもって私の方から申し上げたいが、あなたが総裁だからと遠慮してしまうと言いたいことも言えないので、ここは対等の立場を借り失礼をかえりみないことのお許しを得たい。そしてもしあなたが私を気にくわぬのであれば、これ限りお目にかからない、公私ともに今後決してお邪魔に出ないことを誓います」
この開き直りを受けた是清は、小泉を面白い男だと思った。
「君の気持ちはよくわかった。少しも遠慮におよばない。何でも素直に話したまえ」
と予想外に寛容な態度をとった。小泉はならばとばかりに遠慮なく熱弁をふるった。小泉は史論家でもあり、戦国時代の著書もある。
「あなたが総裁となり首相となったのは、大徳寺の焼香場に秀吉が三法師丸(織田信長の嫡孫)を抱いて出たことに似…
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週刊エコノミスト
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