小説 高橋是清 第157話 加藤友三郎内閣=板谷敏彦
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(前号まで)
政友会の混乱は続く。是清は内閣改造を試みるが頓挫、内閣総辞職をもって組閣の大命降下を待つ戦略に出るもののもくろみは外れ、加藤友三郎内閣が誕生する。
大正11(1922)年6月12日、加藤友三郎内閣が発足した。
大正デモクラシーの流れの中で議会多数党である立憲政友会(以下政友会)総裁の高橋是清にではなく、海軍大将の加藤に組閣の大命が降りた。
是清が政友会内部のゴタゴタを収めきれなかった一方で、加藤にはワシントン会議で軍縮条約をまとめあげた手腕と、条約で決められた軍縮の履行が期待されたからであった。
また高橋内閣が成立した時、存命中の山県有朋が「また泥棒どもの延長か」と落胆したごとく、選挙地盤への利益誘導や汚職に走る政党政治に対する元老レベルの信頼性は低かった。
海軍大臣は加藤が兼任、外務大臣には内田康哉、陸軍大臣には山梨半造がそのまま前内閣から留任した。加藤の出身地広島は地元初の宰相就任とあって大きく盛り上がりを見せた。
大蔵大臣には元大蔵次官の市来乙彦など、閣僚は貴族院研究会から4人、貴族院における政友会別働隊の交友倶楽部から3人と、政党政治に逆行した軍人宰相と貴族院による「超然内閣」でもあり、政友会が与党として閣外協力することから「変態内閣」とも呼ばれた。
閣僚も小粒で一見期待値が低そうな内閣だが、衆議院は過半数を維持する政友会が味方であり、閣僚たちの出自である貴族院も協力的だったので、政策実行力があった。
「変態内閣」の軍縮
まずシベリア撤兵である。
日本は大正7年寺内正毅内閣の時にロシア革命に対する干渉戦争としてシベリアに出兵した。同時に出兵した米国がとうに撤兵し、ソ連の統治が安定し始めたために、日本がソ連領から何らかの利権を獲得する余地はもうなくなっていた。にもかかわらず居座る日本に海外からは領土的野心だけが目立ち評判が悪かった。
原内閣時代からすでに、後にソ連の一部となる極東共和国との間で撤兵交渉が続けられていたが、ソ連との間に緩衝国を置きたい日本との交渉は行き詰まっていた。
加藤は就任して間もない6月23日にシベリア撤兵を閣議決定すると、粛々と撤兵を履行した。
10月25日に日本軍が沿海州からの撤兵を完了すると、この年の12月30日、全ロシアを統一するソビエト社会主義共和国連邦の結成が宣言された。日本の完全撤兵は大正14年である。
日本は「20億円の軍資金と10万人の大和民族が流した血潮によって獲得された満州」を守るためにシベリアへ出兵し、日露戦争の戦費の約半分にあたる9億円の軍事金と3000人の戦死者を出して、国際的悪評以外に何の得るところもなく撤兵したのである。陸軍内部の処遇はともかく、統帥権に守られた軍隊には、出兵の評価も処罰も何もなかった。
加藤内閣のもう一つの業績は軍縮である。
同年の2月6日に締結されたワシントン海軍軍縮条約を日本が批准したのは8月5日である。さらに条約の発効は翌大正12年の8月17日だが、加藤はこれを既定の事実として準備を推し進め、この年にはすでに軍縮の成果を出している。
主力艦で廃棄されるのは戦艦8隻を含む14隻、沈めるか解体の処分、旧式艦の中には武装を取り払って特務艦となったものもある。その中で日本海海戦時の戦艦「三笠」は各国の承認を得て記念物として保存されることになった。現在は横須賀の三笠公園に保存されている。
また戦艦として建造中であった赤城と加賀が空母に改造されることになった、後に両艦は真珠湾攻撃に参加することになる。
加藤は軍縮に対応して組織の縮小も行い、海軍軍人の整理は准士官以上1700人、下士官及び兵5800人に及んだ。また新造艦の建艦中止に伴い呉、東京工廠(こうしょう)の職工の整理は1万4000人に達した。
陸軍も高橋内閣下の第45回帝国議会で陸軍縮小案が可決されたこともあり、次の議会を待たず8月から軍縮が開始された。
陸軍の縮小は師団の数を減らさず、それまで4中隊で編成されていた大隊を3中隊とすることで、1大隊につき1中隊、陸軍全体で合計220中隊、3万3000人を…
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週刊エコノミスト
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