小説 高橋是清 第162話 清浦内閣=板谷敏彦
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(前号まで)
関東大震災翌日に発足した第2次山本権兵衛内閣。後藤新平内務大臣は国家予算規模の復興計画を立案、森賢吾財務官は井上準之助蔵相の命で外債発行に奔走する。
大正12(1923)年12月23日、震災復興を協議した第47回臨時議会が閉会した。
同月25日、東京銀行倶楽部で大蔵大臣井上準之助と日銀総裁市来乙彦の就任祝賀会が開催された。
井上が日銀総裁から大臣に就任したのは9月1日の震災の翌日だったが、モラトリアム発令に震災手形の割引、復興予算策定に外債起債の準備と忙しく、祝賀会どころではなかったのだ。二人は役職が入れ替わっただけだった。
日銀営業局のOBで、この時横浜興信銀行(現横浜銀行)専務だった斉藤虎五郎は井上にこう聞いた。
「あなたは今までずっと銀行にいらっしゃった。議会の答弁はなかなか難しそうですが、いかがなさるおつもりですか?」
井上はこれに笑顔で答えた。
「議会の答弁には二つの型があります。一つは一木喜徳郎(法学者、貴族院議員)型で条理を正して諄々(じゅんじゅん)と説く。もう一つは高橋是清型で、条理をつくさずその時の情勢をとらえて簡単に結論を言ってしまう。
高橋さんは議会でやかましく追及されると、窓の方を向いて『今日雨の降るのも政府の責任か』とやって議場の皆が大笑いになるなどということがありましたな。けれども高橋型でやるには高橋さんにしかできないので、僕は一木型でゆきますよ」
超然内閣
第2次山本権兵衛内閣は関東大震災の大変な時期に組閣されたが、後藤新平が策定した震災復興予算が臨時議会で削られたり、山積みの難問に対して迅速に対処できなかったり、山本は加齢のせいか以前のような人間的迫力を失い首相としての指導力を発揮できずにいた。
12月27日、第48回通常議会(臨時も通常も通し番号)の開院式に向かう摂政、皇太子裕仁親王(昭和天皇)の御料車(自動車)を虎ノ門付近で難波大助という極左テロリストが襲った。これは虎ノ門事件と呼ばれる。
難波の仕込み銃は車両を傷つけただけだったが、皇室を襲うなど前代未聞で、難波は襲撃の後、周囲の群衆から袋だたきにあった。
皇太子は襲撃に対して特に恐怖を抱かず、そのまま議会の開院式に出席し、その後もテニスをしたぐらいだったが、山本首相は責任をとって辞職することになった。皇太子の慰留にもかかわらず辞任の決意が固かったのは、政権運営の自信をなくしていたからなのかもしれない。
そうなれば是清の周辺は、いよいよ議会多数派の立憲政友会(以下政友会)に組閣の大命降下があろうかと期待も盛り上がる。ところが年が明けた大正13年は第15回衆議院議員総選挙が予定されていた。元老西園寺公望は政友会にせよ憲政会にせよ、政党に政権を持たせると選挙干渉がひどくなることを案じて、選挙管理的な意味で、後継首相として故山県有朋系の枢密院議長清浦奎吾に組閣の大命を下した。
覚えているだろうか。第1次山本権兵衛内閣がジーメンス事件に倒れた大正3年、山県は子飼いの清浦を首相にしようとしたが、海軍が大臣を出さずに流れた。鰻屋の匂いだけで鰻重が食えない「鰻香(まんこう)内閣」である。
あの時は、組閣は流れて大隈重信に大命降下したのだ。そして日本は第一次世界大戦に参戦した。
しかし今回の清浦は貴族院を中心に組閣することに成功した。政党を無視した「超然内閣」である。これが大正13年1月7日のことである。
是清が自分に大命降下がないことを知ったのは、年が明けた1月5日、清浦から政友会に対して組閣協力の誘いがあったからだ。是清は断った。
ここで二つの出来事が起こる。一つは護憲運動である。高橋是清内閣以降、海軍の加藤友三郎、海軍の山本権兵衛ときて、ここでまた政党内閣へと戻らず官僚系の清浦奎吾の政権である。これでは憲政の常道が通らない。つまり政治に民意が反映されないではないか。普通選挙の実現が遠ざかると運動が盛り上がったのである。
もう一つは政友会内部の問題である。政友会の内部でも普通選挙問題を巡り、高橋総裁の下で普通選挙を実現しようとする横田千之助ら「総裁派」と普…
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週刊エコノミスト
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