国際・政治 フィリピン
ノーベル賞で風向き変わる?麻薬戦争の是非問うフィリピン大統領選=酒井善彦
ノーベル賞で注目の比大統領選 麻薬戦争や南シナ海情勢に影響=酒井善彦
次期フィリピン大統領選(2022年5月9日投開票)の立候補届け出が今年10月8日、締め切られた。
締め切り当日、世界的ニュースがドゥテルテ政権を大きく揺さぶった。数年で麻薬事件容疑者ら少なくとも7000人が当局関係者に殺害されたとしてロドリゴ・ドゥテルテ大統領(76)の「麻薬戦争」を批判・告発してきたフィリピン人女性ジャーナリストのノーベル平和賞受賞が決まったのだ。
ジャーナリストは、12年に設立されたフィリピンのインターネットメディア「ラップラー」のマリア・レッサ代表(58)。麻薬戦争批判や現政権による「フェイクニュース発信」疑惑についてキャンペーン報道を続ける中、名誉毀損(きそん)などで刑事告発され、逮捕・勾留も経験した。
授賞理由は「民主主義と平和の前提である、表現の自由を守るために闘っている」。ドゥテルテ大統領は「民主主義と平和を脅かす圧政者」のレッテルを貼られたのも同然で、フィリピン人初となるノーベル賞受賞は、次期大統領選の行方に大きな影響を与えそうだ。争点の一つに麻薬戦争の是非が挙がっているからだ。
麻薬事件容疑者らの大量殺害を容認したドゥテルテ大統領は、自身の後継候補が敗れれば訴追・逮捕は必至。また、就任約1年後の17年に「人道に対する罪」で国際刑事裁判所(オランダ)に告発されており、国外でも訴追される可能性がある。
さらにマルコス独裁政権(1965~86年)を打倒したアキノ政変(エドサ革命、86年2月)以来の民主化の流れに逆行し、独裁の記憶を呼び覚ますかのようなドゥテルテ政権の強硬策への反感も国民の間に広がっている。
「与党本命」ドゥテルテ長女
これらを回避すべく、政権与党から立候補したのが16年の現政権発足から約2年間、国家警察長官として麻薬戦争を陣頭指揮し、19年の上院選で初当選したロナルド・デラロサ議員(59)。政治家経験は2年余りで「本命候補の当て馬」との見方が有力だ。というのは、政党公認候補が立候補を辞退すると、他の党員による代理出馬が認められている。立候補届け出最終日、ジャンパー姿で届け出会場に姿を現した当の本人は「(届け出締め切り2時間前の)午後3時ごろ、(与党幹部から)立候補をするよう突然指示され、驚いた」と明かした。
その裏の「本命」として取り沙汰されているのがドゥテルテ大統領の長女サラ氏(43)。16年、父親の後を継ぐ形で、地元ミンダナオ島ダバオ市長に就任し、裁判所職員を住民の眼前で殴り倒すなど父親譲りの「超法規的行動」で知られる。大統領選と同時に実施されるダバオ市長選への3選出馬を既に届け出ているが、次期大統領選の最新世論調査(今年9月6~11日実施)で支持率20%のトップに立っており、代理立候補の届け出期限(11月15日)に大統領選へくら替えする可能性がある。
このサラ氏に続いて支持率2位のフェルディナンド・マルコス元上院議員(64)も与党陣営候補の一人だ。アキノ政変で亡父マルコス元大統領らとともに祖国を追われてから35年。亡父の遺体埋葬などを巡ってドゥテルテ大統領に急接近して政権奪還の機会をうかがってきた。届け出後の記者会見で「麻薬戦争の継続」を表明しただけでなく、「国際刑事裁判所の捜査官らは観光客としてフィリピンを見て回ればよい」と述べ、ドゥテルテ票の取り込みを図る。マルコス氏とペアを組む副大統領候補はまだ発表されておらず、今後の展開次第で「マルコス─サラ」のペア誕生もあり得る。
野党候補の筆頭はレニー・ロブレド副大統領(56)だろう。飛行機事故で急死したアキノ前政権内務自治長官の妻で、亡夫の遺志とアキノ勢力の流れを受け継ぎ、前回副大統領選でマルコス元上院議員との一騎打ちを制した。
だが、ドゥテルテ政権下で麻薬戦争や南シナ海南沙諸島での中国の軍事施設拡充を批判し、閣議にほとんど呼ばれず冷遇されてきた。ソーシャルメディアを駆使した前哨戦で「反ドゥテルテ」を訴える姿は、マルコス独裁下に上院議員の夫を暗殺され、「反マルコス」のシンボル的存在となった故コラソン・アキノ元大統領と重なる部分がある。アキノ支持層に現政権批判票をどれだけ上積みできるかが焦点となる。
国民的人気を誇る元プロボクサー、マニー・パッキャオ上院議員(42)も面白い存在だ。長らく政権与党の顔として活躍し、与党からの大統領選出馬を目指したが、ボクサー復帰戦のため渡米した今年8月、自身不在のまま開かれた党大会で代表の座から引きずり下ろされた。「党を乗っ取られた」と猛反発し、次期大統領選は野党からの立候補を届け出た。
与党分裂を演出した本人はやる気満々だが、9月下旬の引退表明前に実施された世論調査の結果は支持率4位(12%)。「政治家パッキャオ」を支えたのはボクサーとしての人気で、復帰戦惨敗となり引退表明した後は、厳しい選挙戦を強いられるだろう。
野党候補勝利なら親米に
次期大統領選の行方次第で、南シナ海領有権問題を巡る比政府の外交方針に変化が生じるだろう。中国は南シナ海ほぼ全域の領有権を主張し、強大な軍事力を背景に実効支配を強めており、アキノ前政権(10~16年)は国連海洋法条約に反するとして常設仲裁裁判所(オランダ)に提訴し、ドゥテルテ政権発足直後の16年7月に「中国の領有権主張に法的根拠なし」との判断が示された。
だが、ドゥテルテ大統領は「判決は紙切れ同然」と公言し、中国からの投資・援助の取り込みを図った。一方、「南シナ海における航行の自由は国益」とし、海軍の艦船派遣を続ける米国とは距離を置いた。
次期大統領選でロブレド氏ら野党候補が当選した場合、中国寄りの政策が見直され、対米関係の比重が再び増す可能性がある。しかし、フィリピンでの中国と華人系財閥の存在感と政治的影響力は年々強まるばかりで、米中という超大国のはざまで微妙なバランス感覚を求められる状況は今後も変わりそうにない。
日本にとっても南シナ海の領有権問題、シーレーンの安全確保は重要懸案だ。日本は巡視船10隻を比沿岸警備隊に借款供与するなど現政権支援を継続した。対米中政策、域内安全保障という観点からも比大統領選は人ごとではない。
(酒井善彦・元まにら新聞編集長)