小説 高橋是清 第166話 排日移民法=板谷敏彦
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(前号まで)
衆院選の結果、清浦内閣が倒れ加藤高明内閣が発足、外務大臣に幣原喜重郎が就任、大陸不干渉の「幣原外交」が始まる。是清は農商務大臣として入閣した。
大正11(1922)年12月、まだ加藤友三郎内閣の時である。日本の駐米大使は病気がちの幣原喜重郎から外務次官の埴原(はにはら)正直に交代した。
埴原は山梨県出身で私学である早稲田大学の前身東京専門学校卒、さらに平民であり重臣との姻戚関係も特別なコネもなかった。駐米大使としては珍しい存在である。ワシントン、サンフランシスコと駐在経験も長く対米外交一筋の46歳、日本外交史上最も若い駐米大使でもある。
米国をこよなく愛し、米国のメディアや文化人からも大切にされていた。駐米大使にはまさにうってつけの人材であった。
吹き荒れる差別
この少し前、欧州大戦後の米国では、戦争に参加するために元の出身国へ帰った若者たちの帰還と、戦争で荒廃した欧州からの移民があふれて社会問題化していた。
戦後のパリ講和会議において日本提案の人種差別撤廃条項が認められなかったように、当時は現代と違い人種差別が大っぴらに行われていた時代である。米国では、当時人口比率が高かったアングロサクソン系の移民は歓迎だが、東欧系や南欧系の移民は歓迎されなかった。
そうした中で大正10(1921)年に、1910年の移民実績数を基準に国別の移民者数を制限した移民割当法が2年間の時限立法で成立した。
しかし1910年度基準ではすでに東欧系や南欧系が多過ぎるとの指摘もあり、大正13(1924)年には基準を1890年ごろまで戻そうと法改正がすすめられていた。
その一方でアジア系に関しては、1882年の中国人排斥法や、1908年の日米紳士協約による日本側の自主規制によって移民は制限されていた。日本はたとえ形式的ではあってもアジア諸民族の中で唯一、連邦移民・帰化法による移民全面停止を被らなかった民族だった。日本は自主規制によって日本民族の名誉を守っていたのである。欧米白人と対等であると。
当初、1924年に改正される移民法はほとんど移民がなくなっていた日本をターゲットにはしていなかった。ところが米国下院での審議の中で、排日派の議員たちは意味のない排日移民修正条項を加えようとしていた。ちなみに1920年当時の米国在住の日系人は12万人、そのうち7万人が西海岸の4州に集中していた。
日露戦争での勝利によって躍進する日本。黄禍論が渦巻く中、欧州大戦後のパリ講和会議ではとうとう世界五大国の一角を占めるまでになった。
米国西海岸ではロシアを打ち破った「ミカドの軍隊」は脅威であり、ハースト系新聞は日本の脅威をあおり、日本をたたけば売れたのだ。
1890年の移民実績から計算される日本人枠は年間わずか146人であったが、日本側の自主規制によって既に意味がない数字だった。ところがここに「…
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週刊エコノミスト
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