小説 高橋是清 第168話 つかの間の休息=板谷敏彦
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(前号まで)
第二次護憲運動によって成立した護憲三派による加藤高明内閣の成果が出はじめた頃、政友会総裁の是清は加藤邸を訪れ辞意を表明する。
大正14(1925)年4月3日の午後、是清は加藤高明首相を訪ねて、立憲政友会(以下政友会)の総裁辞任に伴って閣僚を辞めたいと伝えた。
是清が正式に田中義一陸軍大将に政友会総裁就任を要請したのは8日である。現役の軍人は政党活動ができない。翌9日に田中は予備役に編入された。
14日には政友会臨時大会が開催され、田中はそこで新総裁就任の演説をした。
「我が国は先の欧州大戦で一等国となったが、その後は充実を欠いている。今や世界は侵略主義的国際競争には幻滅し、協調的国際思潮が浮上しているのであるから、我が国は接壌の善隣(中国と仲良く)を図り、我が国と有無共通の貿易関係を促して、共存共栄の実を挙ぐるに至ることは当然の帰結であります。我が国は産業立国として立つべきなのであります」
軍人出身とは思えない、あるいは後の田中の行動からは想像できない演説であった。しかし、この後政友会は対中強硬路線に転じ、軍部との関係を強めていく。
四人の「姪御」
是清が担当する農商務省は4月1日付で農林省と商工省に分離していた。是清は最後の農商務大臣であり、最初の農林大臣と商工大臣でもあったのだ。商工省は戦時に軍需省となり戦後は通商産業省を経て現在の経済産業省に至っている。
是清が両省の大臣職を解かれたのは17日金曜日であった。
* * *
朝5時起床、起きると2階の雨戸をすべて開けて後、階下に降りて庭を巡回する。是清は胃腸病に脚気(かっけ)と病持ちだったので体操を欠かさない。それからゆっくりと風呂に入り、仏間に入って15分ほど読経した。
朝食はパンとコーヒーである。そしていつもは8時半にお決まりの大臣お迎えの車が来ていたが、それはもうなくなった。
政友会総裁と大臣の職から解放されてようやく得た静寂であった。それでも内外の新聞や論文などには目を通し、情報収集は欠かさなかった。そして衆議院議員は続けている。
赤坂表町の屋敷は現在高橋是清翁記念公園になっている。これは是清の死後、昭和13年に東京市に寄付されたもので、その後港区に移管され今日に至る。
もともとの敷地は約2000坪あり、現在の公園に隣接するカナダ大使館を加えた広大なものであった。さらに表の青山通りは1964年の東京オリンピックの際に拡幅され、記念公園は18メートルほど削りとられている。
建物については現在小金井市の江戸東京たてもの園に是清が日常使用していた母屋と玄関だけが残されているが、往時の高橋是清邸は3棟の建物が建っていた。
政友会総裁を辞めた時、是清は満70歳、妻の品子が59歳、長男の是賢48歳は是清が選挙に出馬する際に子爵を譲られている。次男是福は43歳で、ここまでが先妻柳子の子である。
次いで品子の子として大久保利賢のもとに嫁いでいる長女の和喜子33歳、三男の是孝は32歳、オックスフォード大学留学中に欧州旅行で知り合ったドイツ人アニタと結婚、その後離婚したが是清の孫となる正夫…
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週刊エコノミスト
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