小説 高橋是清 第170話 渡辺銀行破綻=板谷敏彦
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(前号まで)
立憲政友会総裁を辞任、農商務大臣も辞し、是清に久々の休息の日々が訪れる。欧州大戦後で一変した世界経済は金本位制復帰に向かっていた。
大正14(1925)年4月、是清が立憲政友会(以下政友会)総裁を辞め護憲三派内閣の閣僚も辞任すると、革新倶楽部の犬養毅も逓信大臣を辞めて政治家を引退することになった。護憲三派を名乗りながら結局は憲政会主導で物事が進むことに嫌気がさしたのだ。
犬養は、自分は高齢(是清より1歳若い69歳)なので、もう小政党を率いるのは無理だと言うと、革新倶楽部を政友会に吸収させた。
震災手形問題
田中義一新総裁率いる政友会は、いつまでも憲政会の風下にいることに不満で、政権を獲得すべく策動しはじめた。加藤内閣の浜口雄幸大蔵大臣が作成した租税整理案に対し反発、これを受けて加藤は7月31日に閣内不一致を理由に内閣を総辞職させ、元老に是非を問うた。
この総辞職に次期政権を狙う政友会と、かつて政友会と袂(たもと)を分かった床次竹二郎率いる政友本党は活気づいた。両党提携を発表したり、元老の西園寺公望に直接「政本提携」の電報を送り付けたりして政権交代をアピールしたが、西園寺の心は動かなかった。組閣の大命は再び加藤高明に下ったのである。これで護憲三派内閣は終了し、以降は憲政会加藤高明による単独政権となった。
この年の年末に召集された第51回議会では、政友本党の床次ら主流派が政府側につき、同党の中橋徳五郎が22人を連れて脱党し、政友会入りするなどして、政党勢力図が変化していた。
議会では165人の憲政会は87人の政友本党を併せて252人の絶対過半数を持ち、161人の政友会と相対することになった。
しかし首相の加藤高明は国会開催中の翌大正15(1926)年1月に肺炎で死去してしまった。
内務大臣の若槻礼次郎が代理の首相になると、内閣は総辞職したが、後継の組閣の大命はまたもや政友会や政友本党には降りてこず、憲政会の若槻に降りた。
この若槻政権は安定を欠いたが、政権を揺るがすような特に大きな出来事もなく1年が過ぎた。
この年の年末、12月25日には大正天皇が47歳で永眠すると摂政宮が新帝の座につき、25日以降、時代は昭和へと改元された。従って昭和元年は25日から31日までの1週間しかない。
こうして翌昭和2(1927)年に入ると、昨年末召集の第52回議会は1月28日から再開された。
* * *
欧州大戦景気で急速に拡張した日本経済は、その後の反動不況、それに続く関東大震災と立ち直りの機会を与えられないまま昭和に入った。政府、日銀は将来発展すべき有望企業が、こうした不況や震災で倒れぬよう、救済資金を放出して財界の健全化に努めてきた。しかしその一方では、本来淘汰(とうた)されるべき不健全な企業も温存されることになった。
欧州大戦終了当時2000以上あった普通銀行および貯蓄銀行の中には、弱小で既に破綻するものや営業停止のものが増えた。生き長らえているものの中にも、一個人や一つの会社への固定貸しに集中し機関化している銀行や、不動産投資による資金が固定…
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週刊エコノミスト
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