小説 高橋是清 第171話 鈴木商店=板谷敏彦
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(前号まで)
是清の政友会総裁辞任後、田中義一新総裁は政権獲得に向けて策動する。大正天皇が永眠、日本は長期不況と震災の痛手から立ち直れぬまま昭和を迎える。
昭和2(1927)年3月14日、衆議院において、時の片岡直温大蔵大臣は東京渡辺銀行が支払いを停止したと発言した。唐突で大胆な発言に議場にいた議員や記者たちは驚いた。
しかし実際には決済がついていたことを知った大蔵省や日銀の幹部は、この発言の後も東京渡辺銀行に対して営業を続けるよう強くすすめた。ところが東京渡辺銀側にすれば、いずれ破綻は避けられず、蔵相発言はその責任をいくらかでも政府の責任に転嫁できるので、休業することにした。
新聞は蔵相の失言とともに、経営者が東京の大地主で比較的信用が厚かったにもかかわらず銀行が破綻に至ったことを大きく扱った。しかしこれだけで取り付け騒ぎが広まったわけではない。
18日に芝公園で震災手形法案反対国民大会が開催された。
国民の金で一部政商を助けるなと騒ぎが大きくなると、これによって震災手形所持銀行への不安が高まり首都圏の5、6の中小銀行で取り付け騒ぎが起こったのである。これが全部で3段階あった昭和金融恐慌の第1段階の始まりだった。
23日、貴族院は事態収拾のために震災手形法案を条件付きで可決した。
その条件とは、第一に震災手形処理は貴衆両院議員が参加する審査委員会に付議すること。第二に貴衆両院議員が参加する台湾銀行調査会を設けることだった。
震災手形処理を審査委員会で決めることはわかる。では何故ここで台湾銀行を調査せねばならないのか。それは台湾銀行問題とは、台湾銀行が貸し込んでいる政商鈴木商店救済問題そのものだと考えられたからである。世間は、政府は銀行救済のドサクサに紛れて鈴木商店を救うのではないかと疑ったからである。
昭和金融恐慌
では鈴木商店とはどのような会社であるのか。鈴木商店はその実質上の経営者である金子直吉そのものであった。
直吉は慶応2(1866)年土佐の商家に生まれた。家業の破綻、他家での丁稚(でっち)奉公を経て、明治19(1886)年、20歳の時に神戸の砂糖問屋鈴木商店に入った。
明治33年、番頭として樟脳(しょうのう)事業を手がけていた直吉は当時の台湾総督府民政長官後藤新平と近しくなり、樟脳の専売制をもくろんでいた後藤と通じ、台湾樟脳油の販売権のうち65%を獲得すると大きな利益を上げた。
その後、直吉は社業を発展させ、「生産こそ最も尊い経済活動」という信念のもとに「煙突男」と揶揄(やゆ)されるほど工場建設に邁進(まいしん)して鉄鋼、造船、石炭、化学、繊維から食品に至るまでの80社を超える一大コンツェルンを形成した。鈴木商店の流れをくむ企業は神戸製鋼所、帝人、双日、日本冶金工業など現在も数多く残っている。
鈴木商店のさらなる拡大への転機は第一次世界大戦である。直吉は鉄や船などの投機的商品を買い占め、一時は、三井財閥、住友財閥、三菱財閥を凌駕(りょうが)する勢いを示した。しかしそこが成長のピークであった。
やがて戦後景気の反動がやってきたが、拡大した戦線の縮小は容易ではなく、鈴木商店の経営は過剰債務で傾いていった。
この時、やり手の直吉は時の大蔵大臣是清や逓信大臣野田卯太郎の屋敷にお百度を踏んで債務の整理を懇願した。さらに日銀井上準之助総裁も動かして、さ…
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週刊エコノミスト
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