小説 高橋是清 第172話 是清蔵相に=板谷敏彦
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(前号まで)
欧州大戦後の長期不況と震災の痛手から立ち直れぬまま昭和を迎えた日本。東京渡辺銀行、鈴木商店の破綻に株式市場が動揺し昭和金融恐慌が始まった。
昭和2(1927)年4月17日日曜日、台湾銀行を救うための勅令案である「日本銀行特別融通及損失補償令」が枢密院で否決されると、万策尽きた若槻内閣は総辞職した。
この夜日本銀行に大蔵省、日銀、有力銀行の代表者が集まって協議会を開いたが、具体的な方策は見つけられなかった。
明日、すでにコールマネーが取れずに資金が枯渇した台湾銀行は危機に陥るだろう。その影響を受けて有力銀行といえども取り付けにさらされるかもしれない。今後各自自分の銀行は自分で守るほかなしとの結論である。夜12時を過ぎて協議会は散会した。
その1時間後の午前1時、台湾銀行の森広蔵頭取以下重役に台湾総督府後藤文夫総務長官、大蔵省からも監督官が列席して対策が練られた。台湾銀行は特殊銀行であり、台湾島の発券銀行でもある。いかに政府に見捨てられようと明日も営業されねばならない。
それに、独自通貨を持つ台湾銀行を潰さないというのは、いわば日本政府の国際公約のようなものでもあった。どのような内閣が後を継ごうと、台湾銀行は再起されるはずだと彼らは考えた。
18日午前7時45分、台湾銀行は内地(日本国内)と海外支店および出張所の休業を発表した。台湾島内の店舗は通常通りに営業することにしたのだ。
この結果台湾島では18日に取り付け騒ぎが発生したが、台湾総督府は新聞、電信を通じた本土からの金融不安に関する情報を遮断することでこれに対処、台湾での取り付けは翌19日をピークとして20日には沈静化へ向かった。
取り付け騒ぎ
一方で、大阪の一流銀行である近江銀行も台湾銀行と同じ17日の夜に休業を決めていた。金融恐慌第2段階以降の緩慢な取り付けがじわじわと効いてきたのである。
近江銀行は日銀出身の頭取を頂いていた。そのため主要取引先の大阪本町辺りの繊維問屋は休業がにわかに信じられず、翌朝はショックで閉める店が続出した。台湾銀行と近江銀行の休業、いよいよ大物の登場に、取り付け騒ぎは大阪市周辺部の各銀行支店から始まり、流言飛語を交えながら大阪の中心部、さらに全国各地へと波及し、各地で預金引き下ろしのための長蛇の列ができた。昭和金融恐慌の最終局面、第3段階である。
この18日の朝、慣例に従って首相辞任を宮家に報告するため都心を車で移動していた若槻は、取り付けに遭ういくつもの銀行支店の玄関先を見て心を痛めた。
* * *
翌19日午前11時、若槻内閣総辞職の後を受けて、組閣の大命は立憲政友会(以下政友会)の田中義一総裁に降下した。
宮中を辞した田中は、西園寺公望の元からやってきた松本剛吉(山県有朋の元右腕)と会い、その後政友会幹事長の山本条太郎と組閣の下相談をすると、是清ほか犬養毅、岡崎邦輔の3長老が待つ赤坂表町の是清の家へと向かった。
この会合で司法省並びに陸海軍を除き閣僚はすべて政友会から選ぶことを決めた。当時貴族院の研究会から閣僚に人を送り込みたがっていたが、断ることにしたのだ。
この席で田中は是清に懇願した。
「首相も政友会総裁も歴任された高橋さんにはまことに気の毒な話ではあるが、見てのとおり世間は取り付け騒ぎが頻発し、金融恐慌の状況にある。ここはぜ…
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週刊エコノミスト
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