小説 高橋是清 第174話 台湾銀行救済=板谷敏彦
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(前号まで)
昭和金融恐慌が始まる。取り付け騒動が全国に広がり万策尽きた若槻内閣は総辞職、田中義一新内閣の大蔵大臣に就任した是清はモラトリアム発令を決断する。
昭和2(1927)年4月25日月曜日、21日木曜日に是清がモラトリアムを決め、22、23両日は法手続きの間、銀行が自主的に休業した。そして24日は日曜日だったので、モラトリアム発令後初めての銀行営業日である。
この日数行の貯蓄銀行や郡部において多少の取り付けはあったものの、取り付け騒ぎは沈静化した。
「人心著しく安定、東京都内の一般普通銀行は手持ち無沙汰」と翌日の東京朝日新聞は伝えている。この後取り付け騒ぎは一気に収束に向かった。
今回の取り付け騒ぎで慌てて現金を引き出した者の中には置く場所に困り、銀行に預けに来る人も多かった。その際は三井、三菱、住友、第一など、名の通った銀行を選んだので、預金は大銀行へ集中することになった。
二つの根本原因
さて、片岡直温大蔵大臣の失言から始まった昭和金融恐慌、取り付けにあった銀行は、担保をそろえて日銀に現金を借りに行く。そして担保が尽きれば休業となるのである。従って恐慌の時間的推移を観察するには日銀が市中銀行に貸し出す残高の推移を見るのがわかりやすい。
図は日銀貸出残高と、兌換(だかん)券つまり日銀券の発行残高のグラフである。
一般に片岡蔵相失言という事件だけが記憶に残ってしまうが、この失言は恐慌のきっかけに過ぎない。
3月中旬の第1段階は東京地域の取り付けだったものが緩慢な取り付けが進行し、4月に入ると台湾銀行と関係の深い鈴木商店が破綻して系列銀行の第六十五銀行が休業、第2段階へと入った。
そして台湾銀行が休業するに及んで第3段階の恐慌へと至ったのである。
田中内閣となって休み明けの4月25日、この日に日銀貸し出しはピークを打つが、これは預金者を安心させるために各銀行が店頭に現金を積み上げて開店準備したからである。
さて、21日間のモラトリアム。戦時中の特殊状況下や、日本では関東大震災などの非常時に支払い猶予令を出すことはあったが、世界でも平時においては珍しい。
4月25日以降、モラトリアム期間は資金が動かない。証券取引所、米穀商品取引所などは申し合わせて休市、繊維業界などは短縮操業を実施して経済活動も滞っている。首相の田中義一は不在、是清は各方面からの多くの陳情をこなさなければならなかった。
しばらく借金を返さなくてもよいという命令は、庶民にはどう映ったのか、酒屋の女将(おかみ)である。
「この近年の不景気で全く鰹節(かつおぶし)の削り食いをしているようなもの。その上にモラ……何とかいう法律で動きがとれません。お昼までの成績では豆くそほどの支払いをもろうてきたばかりです。その反対に当方で払うものは遠慮なしに取りにくる」
1日500円までという預金引き出しの限度があるから、割を食うのは水商売、一流の会社でも、お茶屋の支払いまでは現金がまわらぬという。また料理屋では当然宴会や接待なども中止となって、さらに客先への集金も遠慮がちになった。
* * *
今回の恐慌にあたって、是清が閣議決定したミッションは「(1)緊急勅令を出して21日間のモラトリアムを全国で実施すること、(2)臨時議会を召集して台湾の金融機関の救済および財界安定に関する法案に対して協賛を得ること」であった。
当面のモラトリアムはとりあえずの効果を見たものの、今回の金融恐慌の根本原因である台湾銀行問題と財界安定の仕事が残っていた。
第53回臨時帝国議会は5月3日に召集、4日…
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週刊エコノミスト
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