小説 高橋是清 第175話 川崎造船所=板谷敏彦
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(前号まで)
取り付け騒動が全国に広がり若槻内閣は総辞職、田中義一新内閣の大蔵大臣に就任した是清はモラトリアムを発令、昭和金融恐慌は沈静化に向かう。
昭和2(1927)年5月8日、日付も変わろうかという深夜11時半、阪谷芳郎貴族院議員の助け船によって「日本銀行特別融通及び損失補償法案」、「台湾の金融機関に対する資金融通に関する法律案」の両法案は会期終了間際に無事貴族院を通過した。公布は翌日である。
大蔵大臣の是清は、慣例に従って貴族院、衆議院両院の幹部室に法案成立のあいさつ回りを済ませると、車に乗り込んだ。すでに午前1時をまわっていた。
同乗した上塚司秘書官が気遣う。
「お体の具合は如何(いかが)ですか」
心配したというよりは、かけ声のようなものである。実はこの時、是清の顔は晴れ晴れとして満足気であった。
是清は確かに疲れていたが、予期しなかった阪谷の助け船に感激していた。金融恐慌を政争の具とし、公益を忘れ自己の利益のみに走る政治家ばかり見てきていたから、実にさわやかな心持ちになったのだ。
「上塚君、見なさい。月が皎々(こうこう)と輝いておる」
是清は後年『随想録』(1936年)にそう記したが計算ではこの時月は沈んだばかりだった。よほどうれしかったのだろう。
これで第一の課題であるモラトリアム、第二の課題である法案通過を乗り越えたわけだった。次の課題はモラトリアム明けの5月13日がどうなるかである。
十五銀行
支払い猶予期間が切れてどうなるのか、特に銀行間の資金のやりとりであるコール市場での動き、各行一斉に資金を引き揚げたりはしないだろうかと心配されたのである。
さらにまだ問題はあった。
休業した華族の銀行、十五銀行である。頭取は3年前に亡くなった松方正義の長男、松方巌。是清は松方正義には恩義がある。巌のことは是清もよく知っている。
そしてこの十五銀行の問題は、同行と最も関係が深い川崎造船所の存続にも大きく関係していた。川崎造船所の社長は松方正義の三男、松方幸次郎である。
幸次郎はエール大学の法律学博士号を持つ俊英で、川崎造船を世界的な造船会社に成長させた。
第一次世界大戦ではそれまで受注生産だった貨物船を規格化し、見込みで大量に生産、大成功を収めた。しかしあまたの例に漏れず戦後の反動景気で苦境に陥っていた。世に有名な松方コレクションは彼の収集したものだ。
川崎造船所は大型戦艦を建造できる世界的に見ても希少な防衛産業の雄である。この経営が不安定では国防問題に直結する。
翌9日朝、是清は自宅に日銀総裁の市来乙彦を呼んでこの件について話し合った。是清としては十五銀行だけでなく川崎造船所も救いたい。
第10代日銀総裁の市来は大蔵大臣経験者、いわゆる薩派(薩摩閥)の恩恵を受けた出身者としては最後の金融関係者といわれている。大蔵大臣になったのも日銀総裁になったのも松方の押しがあったからこそだ。少なくとも是清はそう思っている。
「十五銀行と川崎造船所は不可分だ。川崎さえ救えば十五銀行は再び浮かび上がってくるだろう。従って十五銀行だけを救うというのは理屈に合わない。軍艦も造っていることだし、川崎造船所の救済ということならば、国防上の見地からも十分名目が立つ」 と、是清が言うと、薩人としては珍しく普段は物静かな市来が反対した。
「十五銀行の救済であれば、預金者救済で十分ではないでしょうか、何もわざわざ国防問題まで持ち出さなくとも……」
是清にすれば、この男、何を言うか、君は松方さんにはさんざんお世話になったではないかという話だが、どうにも、日本銀行内の議論では、事業会社…
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週刊エコノミスト
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