小説 高橋是清 第176話 山東出兵=板谷敏彦
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是清のモラトリアム発令により金融恐慌は沈静化に向かう。川崎造船所救済を模索する是清は対立する日銀総裁を更迭、自らも大蔵大臣を辞任した。
昭和2(1927)年4月20日、昭和金融恐慌を期に憲政会若槻礼次郎から立憲政友会(以下政友会)田中義一へと政権が移った。
是清は田中からの要請で大蔵大臣となり昭和金融恐慌を収めたが、この時同時に日本の外交方針を大きく変えることになる事件も起きていた。
南京事件
日本がこの金融恐慌に入る少し前、大正15(1926)年7月1日、中国では、孫文亡き後を継いだ国民革命軍総司令の蒋介石が北伐を宣言して、軍を北へと進めた。北京政府を成す北方の軍閥を倒して中国国民党による全土統一を図るためである。
昭和2年3月24日、まさに日本が昭和金融恐慌のさなか、南京を占領した北伐軍は「反帝国主義」を叫びながら外国領事館および外国人居留民を襲撃した。南京事件である。英国は日本に共同出兵を持ちかけたが若槻内閣の幣原喜重郎外相は断った。「幣原外交」は対中国内政不干渉を基本としていた。
英国と米国は長江に停泊中の駆逐艦から中国国民革命軍に対して艦砲射撃を実施して、陸戦隊を上陸させた。英米が軍を出動させたにもかかわらず、日本は無抵抗主義を貫き、結果として日本人居留民は悲惨な被害を被った。
さらに4月3日、北伐軍が南京の長江上流に位置する都市武漢を攻略した際、武漢の一部である漢口で日本租界を襲う事件が発生した。漢口事件である。南京での日本の無抵抗主義がつけこまれた懸念があった。
これらの事件では日本人に対する残虐行為が明らかになったので、国会においても政友会は無抵抗の「憲政会の軟弱外交」を攻撃していたのである。「大陸の自国民を見殺しにするのか」と。
枢密院が憲政会の金融恐慌対策である勅令案を蹴り、政権崩壊へと導いたのも、この軟弱な外交政策を嫌ったからでもあった。
政友会の田中に政権が移った5月、北伐の国民革命軍は山東省に接近、北伐は着々と進んでいた。
田中は日本人居留民保護のために関東軍から約2000人の兵を割き青島や済南に進出させた。これらは第一次世界大戦でドイツと戦い日本が制圧し中華民国への返還でもめた地域だった。これが第1次山東出兵である。
日本はこの出兵を他の列強である英米仏伊にも事前に通告し了承されていたし兵力も2000人と、居留民保護のレベルであった。日本軍の進出により蒋介石の北伐は一時停滞し、日本軍は8月には撤兵したのでこの時列強との外交的な問題は発生しなかった。
田中は組閣にあたって、自身を兼外務大臣とし、森恪(つとむ)という政友会内でも積極外交を唱え、幣原外交を批判してやまない人物を外務次官に抜擢(ばってき)した。この体制下で森は実質上の外務大臣のように振る舞うことになる。山東出兵も彼の主導である。
6月27日、田中は幣原外交を脱却し、今後の日本の大陸政策を検討する東方会議を、外交当局者や軍部首脳を集めて開催した。議長は森が務めることになった。
森恪は明治16(1883)年生まれの44歳、三井物産社員を経て政友会に参加し、横田千之助の地盤を引き継いで代議士になった。資金集めが得意で、この経歴での外務次官抜擢は異例の出世である。後に政友会幹事長に就任、復活した幣原外交を攻撃し、軍部と接近して侵略的な中国政策を推し進めることになる。
森が主導する東方会議は最終日の7月7日に「対支政策綱領」を発表した。
・派兵による居留民保護は行うが、北伐に対しては干渉しない。つまり派兵する
・満蒙(満州と内蒙古)における日本の「特殊地位」を尊…
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週刊エコノミスト
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