小説 高橋是清 第179話 モルガン商会=板谷敏彦
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金融恐慌で国内が揺れる中、満州では排日運動が激化、蒋介石軍の進撃は止まず、劣勢の張作霖は北京を脱出するが関東軍によって爆殺される。
時は再び昭和金融恐慌の頃にまでさかのぼる。この金融恐慌の最中に誕生した立憲政友会田中義一内閣の約2年間は、その後の昭和の歴史を決定するさまざまな出来事が並行して起きていた。それは国際金融面でもしかりである。
トーマス・ラモント
金融恐慌が収まり、是清も大蔵大臣を引退し、諸事落ち着きを取り戻した昭和2(1927)年10月3日、米国モルガン商会の筆頭ジャック・モルガンに次ぐナンバー2のトーマス・ラモントが横浜港に到着した。
これは日本ではちょうど陸軍若手エリート将校たちの勉強会である二葉会や木曜会が結成され満蒙領有論が活発に討議され始めた頃でもある。
第一次世界大戦以降、国際会議のあるところ米国の代表はモルガンの人間ばかりと言われた時代だった。政治外交的にはモンロー主義を唱えつつ国際連盟にも加わらなかったが、戦時中に資金を供給した米国は財政面で世界を主導する立場にあった。その先兵がモルガンである。
ラモントを日本に招待したのはこの時、東京電灯の財政顧問をしていた森賢吾。国際金本位制再建を提言したジェノヴァ国際経済会議(1922年、第153話)の代表を務め、国辱国債と呼ばれた関東大震災の復興外債の発行にも携わった、是清の後輩、元海外駐箚(ちゅうさつ)財務官である。
招待した時期は1年前の秋、まだ憲政会若槻礼次郎内閣の時だった。
第一次世界大戦以降の世界経済は「常態への復帰」という言葉に象徴されるように、常態すなわち金本位制の再建と欧州の復興が最重要課題となった。
戦場から遠く離れていた米国と日本は輸出ブームにわき、大量の外貨を手にした。
米国は終戦後すぐに、戦時中に禁止していた金輸出を解き金本位制に復帰した。一方で日本は原内閣の時代だった。是清たちの、戦後は中国向けの投資が必要になるとの判断から、当時は金本位制への復帰は見送ったとの経緯があった。
従って戦後すぐには米国だけが金本位制に復帰していた状況だった。
そこで森や深井英五が出席した1922年のジェノヴァ会議では先進国は金本位制への復帰を全体の目標として掲げたのである。
ところが日本は金本位制復帰を模索している時に関東大震災(1923年)が発生し、その後の巨額の貿易赤字の発生によって正貨が流出して金本位制への復帰は困難になっていた。
一方でドイツは新通貨ライヒスマルクがドルとペッグ(連動)することで実質金本位制に、また英国は1925年5月に金本位制に復帰し、欧州諸国も復帰に対する機運が盛り上がっていたのが昭和金融恐慌直前の時期だったのである。
こうした中で当時の憲政会内閣は正貨、すなわち金を取り込み金本位制に復帰する手段として外貨建ての東京市債、大阪市債の発行をもくろんだ。
* * *
1926年10月、ラモント来日の1年前の秋、ロンドンで東京市外債の発行が決まった。
憲政会若槻内閣は、片岡直温蔵相が中心となって市来乙彦日銀総裁、井上準之助前日銀総裁などを招き、金解禁実施を検討し合意に達した。
片岡蔵相は金解禁すなわち金本位制復帰の方針を内外に発表し、そしてそれと同時期に森がラモントを日本に招待したのである。
日本の金本位制復帰には米国資本の援助、具体的には、正貨獲得のための外債発行や、金解禁時の短期資金流出に備えた米国からのクレジット(必要な時には貸し出すという契約)の設定が必要だった。英国も金本位制復帰当時はモルガンからのクレジ…
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週刊エコノミスト
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