国際・政治

トランプ氏の置き土産が奏功、中絶巡る戦いは保守派が勝利=中岡望

ワシントンDCの連邦最高裁前でデモを行う中絶反対派の人々 Bloomberg
ワシントンDCの連邦最高裁前でデモを行う中絶反対派の人々 Bloomberg

米国を揺さぶる妊娠中絶の禁止

 トランプ前大統領が送り込んだ最高裁判事が、米社会の分岐点といえる中絶問題に判断を下す。

宗教的対立が深刻な分断を招く=中岡望

 米最高裁判所はミシシッピ州が定めた妊娠15週以降の中絶を禁止する法律の合憲性を巡る裁判の審理を昨年から行ってきた。そして6月24日に同州の主張を認め、中絶規制は合憲という判決を下した。

 米国では1980年代以降、リベラル派と保守派の間で社会倫理を巡って壮絶な“文化戦争”が続いている。その最大の戦場は、妊娠中絶を巡る戦いである。かつて米国では、妊娠中絶は言うまでもなく、避妊による家族計画すら忌避され、中絶は刑法によって犯罪として扱われた。しかし、73年の最高裁の「ロー対ウェイド判決」で女性の中絶権が初めて認められた。

 いま、ロー対ウェイド判決が最高裁で覆され、再びすべての中絶が禁止される可能性が高まっている。中絶を巡る戦いは、「保守派の勝利」に終わりそうだ。92年の最高裁判決では妊娠後24週以降の中絶を禁止していた。ミシシッピ州法は、母体の生命に危機がある場合を除き、レイプによる妊娠でも中絶を認めないという厳しい内容である。妊娠後15週の禁止は、実質的に全ての中絶を禁止することと同じ意味である。

 ミシシッピ州政府は、連邦地裁、連邦控訴裁での裁判で敗訴したが、同州は最高裁に上告していた。同州政府は、中絶禁止の合法性を主張するだけでなく、最高裁に対してロー対ウェイド判決を破棄することを求めていた。最高裁がどのような判決を下すか注目されており、この1年の最高裁の行動を見る限り、同州の主張を認める判決を下すとみられていた。

 その前兆はあった。昨年9月に最高裁は妊娠6週以降の中絶を禁止するテキサス州の法律の差し止めを求める訴訟で、原告の主張を退けていた。さらに5月2日に最高裁のアリート判事が作成した審理中のミシシッピ州法を巡る訴訟の判決文の草案がリークされるという異例な事件が起こった。その草案の中でアリート判事は「ロー対ウェイド判決は覆されるべきである」と明確に指摘していた。

『ニューヨーク・タイムズ』紙は「同判決は、この数十年で社会に最も深刻な影響を与える判決である」と、その影響力の大きさを指摘しているように、この最高裁判決は米国の政治的分断をさらに深め、より深刻なものにすることは間違いない。

 アリート判事は「憲法には女性の中絶権を規定した条文はない」と主張しており、ロー対ウェイド判決が覆ったため、中絶に関する規定は各州に委ねられることになる。図に示したように、民間調査会社が公表した、各州の中絶問題に対する姿勢には、温度差がある。

同性婚も禁止の可能性

 なぜ中絶問題が、米国社会を分断するほど深刻な問題なのであろうか。73年にロー対ウェイド判決が出た後、「エバンジェリカル」と呼ばれる保守派のプロテスタントは伝統的な社会の価値観の根底が崩れると猛烈に反発し、同判決を覆すために積極的な政治運動を始めた。反対運動を指導したのは、「モラル・マジョリティー」と「フォーカス・オン・ザ・ファミリー」という宗教組織であった。彼らは、中絶に反対する保守派の判事を最高裁に送り込む戦略を取った。

 最初の行動は、共和党に対して影響力を行使することであった。80年の大統領選挙で共和党のレーガン候補と取引をする。最高裁判事に中絶反対派の人物を送り込む約束の見返りにレーガン候補の選挙運動を支援し、巨額の政治献金を行った。だが、8年間の在任期間中、レーガン大統領は最高裁判事に中絶に反対する保守派の判事を送り込むことはできなかった。

 2000年の大統領選挙でもエバンジェリカルの組織「クリスチャン・コーリション」は、共和党のブッシュ候補の最大の献金者になり、保守派の最高裁判事指名を約束させ、共和党の政策綱領に中絶禁止が盛り込まれた。だがレーガン大統領と同様にブッシュ大統領もエバンジェリカルの期待に応えることはできなかった。そして2016年の大統領選挙では、最も「非キリスト教的人物」であるトランプ候補と同じ約束をし、選挙運動を支援した。

 トランプ大統領は在任中に3人の保守派の人物を最高裁判事に指名した。その結果、9人の最高裁判事のうち6人を中絶に反対する判事が占めることとなった。この時点で最高裁がロー対ウェイド判決を覆すことは決まった。この人事の実現が、現在でもエバンジェリカルがトランプ前大統領を支持する最大の理由である。

 エバンジェリカルが取った戦略は巧妙であった。南部の共和党が多数派を占める保守的な州で草の根運動を展開し、州議会で中絶を禁止する法案を成立させていった。そうした法律に対して、女性の中絶権を擁護する団体はロー対ウェイド判決に違反すると相次いで訴訟を起こした。

 訴訟は連邦地裁と連邦控訴裁で争われ、最終的に最高裁に上訴された。そこで待っていたのは、エバンジェリカルの要求に基づいて任命された判事が過半数を占める最高裁であった。

 さらに問題なのは、最高裁判事の任期は終身であることだ。エバンジェリカルの次の標的は、同性婚を合法化した最高裁判決を覆すことである。また、避妊問題や「LGBT」など性的少数者の権利抑制、宗教的自由の確立を求めてくるだろう。

女性の負担が増える

 ロー対ウェイド判決が覆された場合、最も大きな影響を受けるのは誰か。2020年に行われた中絶件数は約93万件に達している。17年の約86万件から8%増えている。妊婦の約20%が中絶を行っている。その多くが黒人などの少数民族であり、貧困層でもある。州内での中絶が禁止されれば、中絶を認めている他州に行かなければならない。そうした女性は大きな経済的、精神的負担を負う。

 アリート判事の判決草稿がリークされた後、各地で抗議集会が開かれている。最高裁の周辺には判事たちの安全を確保するために2.4メートルの柵が設けられた。保守派の判事の暗殺未遂事件も起こっている。保守派の判事の自宅周辺では中絶権支持派の団体がキャンプを張って抗議活動を行っている。中間選挙で劣勢を伝えられる民主党は中絶問題を最大の争点とし、リベラル派の有権者の動員を図る計画を立てている。

 今回の最高裁判決は米国社会の保守化をさらに進め、その影響は長期にわたって米国社会を根底から揺るがし続けるだろう。

(中岡望・ジャーナリスト)

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