週刊エコノミスト Online 日韓関係
徴用工問題の重大局面を前に「引き金を引きたくない」日韓の“本音” 澤田克己
日韓関係で最大の障害となっている徴用工問題は、「いつ爆発するか分からない時限爆弾」を抱えている。問題は、韓国で差し押さえられた日本企業の資産の現金化、つまり、資産を売却し、被告への賠償に当てる司法手続きが、いつ実行に移されるかだ。「8月19日にも韓国最高裁が売却命令を確定させる可能性がある」とも報じられた。ただ、この命令が確定したら、日韓関係が「破局」に向かうと考える関係者は、実は少ない。それはなぜなのかを考えてみたい。
大きすぎる「現金化」の代償
まず確認しておかなければならないのは、本当に現金化が実行されたら大変なことになる、という点だ。日本国民(法人を含む)に現実の損害が生じるとなれば、日本政府は対抗措置を取らざるをえない。そうなると韓国政府も相応の措置を取ることになり、報復合戦に発展する可能性がある。
そうなれば、どうなるか。韓国の尹徳敏(ユン・ドクミン)駐日大使は「おそらく韓国と日本の企業が数十兆ウォン、数百兆ウォン(1ウォンは約0・1円)にも及ぶビジネスチャンスを失う可能性がある」という見通しを示している。
日本の経済力は世界3位、韓国も10位前後だ。半導体などの先端産業を含めて両国経済は密接につながっており、報復合戦になれば、どこに被害が及ぶか見当もつかないというところだろう。
だからこそ「現金化」は当初から懸念されていたし、逆に言えば、それさえ避けられれば難局を乗り切れると考えられた。韓国最高裁(大法院)が2018年10月に原告勝訴の判決を確定させた時も、筆者の取材に応じた韓国外務省高官は「日本企業に現実の被害が出ないようにすれば大丈夫だ」と落ち着いた口ぶりで話していた。
ただ、当時の文在寅(ムン・ジェイン)政権が対日政策に特別な関心を持たず、事態を放置したため、この高官の想定していたシナリオ通りには進まなかった。原告側からも「できれば現金化はしたくない」という声は出ていたものの、現金化に向けた手続きは粛々と進んでいった。
期限は8月19日
下級審の売却命令を受け、命令を不服とする日本企業は最高裁に即時抗告した。今は、最高裁が棄却すれば、売却命令が確定する、という段階にある。
韓国の最高裁は、日本などと同じ法律審と位置付けられる。下級審の判決が憲法や法の解釈を誤っている、というような場合を除き、上告はそもそも受け付けられない。韓国の法律では、最高裁は上告から4カ月以内であれば理由を明示せず「上告理由に該当しない」と訴えを棄却できる。韓国ではこれを「審理不続行」と呼ぶ。今回の売却命令は、8月19日がその「期限」にあたる。
韓国外務省は7月、この期限を前にして、最高裁に「外交努力を尽くしている」と訴える意見書を提出した。原告は強く反発したが、意見書の提出を受けて「最高裁の判断は先延ばしされる」という観測が広がった。原告側弁護士の一人は筆者の取材に「審理不続行の期限に大きな意味はない。来月や再来月に棄却決定をすることだってありうる」と語った。先延ばしされることを覚悟しているのだろう。
日韓双方が望む「先延ばし」
最高裁が日本企業の即時抗告を棄却し、売却命令を確定させたとしても、実は、即、売却が進められるわけではない。尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権の対日政策に詳しいソウル大の朴喆熙(パク・チョルヒ)教授は「売却命令の確定は『競売にかけて売却できる』という意味であり、『売却しなければならない』という意味ではない」と指摘する。
実際に売却が実行された場合の破壊力の大きさを、原告側を含めて関係者はよく分かっている。それだけに「おいそれとは実行できない。政治的な負担が大き過ぎる」(朴教授)。売却命令の確定にこぎつけても、一気呵成に進められるほど簡単な話ではないのだ。
在外研究のためソウルに滞在している慶応大の西野純也教授は「重要なのは、むしろ日本政府の判断だ」と指摘する。西野教授は「言葉通りに取るなら、現金化とは売却が完了した段階を指す。それ以前の段階でも日本政府として韓国側に抗議することはあるだろうが、それ以上の措置を取るとは考えづらい」という。
日本政府も、報復合戦の引き金を引くことは望んでいない。激化する米中対立が国際情勢を構造的に変化させ、さらにはロシアによるウクライナ侵攻が東アジアにも暗い影を落とす中、韓国との協力強化は必須である。
外務省当局者も「最高裁の命令が確定しても、それで状況が大きく変化することにはならないだろう」と語る。尹政権はなんとか解決したいという意欲を見せはするが、政権支持率の深刻な低下に見舞われている現状を考えると、国内の反発を招きかねない思い切った措置を取るのは難しい。かといって日本政府が過度に追い込めば、尹政権の国内基盤を弱くする結果を生むだけだ。
結局は、緊張感をはらみつつ先延ばしを繰り返す、という現在の状況が当面は続く可能性が高そうである。
澤田克己(さわだ・かつみ)
毎日新聞論説委員。1967年埼玉県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。在学中、延世大学(ソウル)で韓国語を学ぶ。1991年毎日新聞社入社。政治部などを経てソウル特派員を計8年半、ジュネーブ特派員を4年務める。著書に『反日韓国という幻想』(毎日新聞出版)、『韓国「反日」の真相』(文春新書、アジア・太平洋賞特別賞)など多数