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経済・企業 金融危機に学ぶ

私の97年11月/3 官房長官にせかされた金融庁設立 五味広文

 1997年の金融危機から25年。「日本経済の転換点」と呼ばれるこの年に何が起き、その後どう変遷したのか。「私の97年11月」と題して関係者に総括してもらった。3人目は、元金融庁長官の五味広文氏。

 1996年当時、私は大蔵省銀行局で調査課長を務めていた。橋本龍太郎政権の金融ビッグバンを受け、財政と金融の分離(財金分離)のあり方を検討していた。財金分離は、6850億円の公的資金を投入した95年の住専(住宅金融専門会社)問題が直接のきっかけだ。96年12月に総理府(現内閣府)の中に金融監督庁の設立準備室ができ、私は97年7月に設立準備室主幹に就いた。

 その当時は住専問題後の混乱が続き、信用組合の経営破綻も起こっており、金融危機の前夜ではないかと、特に銀行監督をしていた幹部は十分に察知していた。しかし、金融危機に対応する権限はまだ大蔵省が持っており、私自身は情報が遮断されていた。「このままで大丈夫なのか」と思ううちに、97年11月の連鎖倒産が起きた。そして、日本長期信用銀行(現新生銀行)に、マーケットの激しい攻撃が起き始めた。

 その時の財金分離の担当大臣は梶山静六官房長官だった。通常、新しい役所の設置は予算の関係で10月になる。梶山さんは、私が説明に行くたび、「10月だと間に合わない。早く設立させろ、つぶれるぞ」とせかし、とにかく98年6月中に金融監督庁を設立させることになった。

リスク取る動き復活せず

 6月の設立と同時に私は検査部長に着任した。7月に長銀に検査に入ると、貸し出し資産の悪化ぶりは一目瞭然だった。金融再生法が10月に成立すると、長銀の申し出により政府は破綻認定し、特別公的管理(国有化)が決まった。12月に日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)が国有化されると、銀行株が底を打って上がり始めた。マーケットは当局が事態を完璧に把握したと受け止め、私は「やるべきことをやった」と感じた。

 99年3月には、金融早期健全化法に基づき、大手15行に約7兆5000億円の公的資本を注入。これで、金融不安、マーケットの不安は収まった。ただ、そのあと、デフレが本格化。銀行の貸し渋りもすごく、日本経済はすっかり冷え込んでしまった。この状況で、りそな銀行だけ、もう一度経営不安に陥り、2003年に公的資本を注入することになる。これにより、銀行業界に対するマーケットの信認は完全に回復する。

 問題は、その後、銀行の間で、新しいリスクを取って、日本の次の経済発展の旗を振る動きが出てこなかったことだ。戦後の日本経済の驚異的な復興を担ったのが銀行、特に、長銀や日本興業銀行(現みずほ銀行)などの大銀行だった。彼らは、自らのバランスシート(貸借対照表)に日本経済の成長に伴うリスクを引き受けていった。しかし、現在、日本の銀行は必ずしも経済的な付加価値を生んでいない。

 今のトップは中堅時代、金融危機の中で「どう、損失を出さずに済むか」という環境で育てられた。そういう人たちとその眼鏡にかなった人たちが経営の中枢にいると、リスクを取ってみようという発想にならないのではないか。

 92年8月の株価急落を受け、宮沢喜一首相が自民党の軽井沢セミナーで提言した時に、銀行に公的資本を注入すれば、その後の日本経済は違っていただろう。バブル崩壊の中でも、環境の変化に応じて、銀行がリスクを取れる可能性があった。しかし、現実は、そうした選択をする財務的な余裕がなく、銀行は追い詰められていった。その時点で負けだった。

(五味広文・元金融庁長官)


 ■人物略歴

ごみ・ひろふみ

 1949年生まれ、72年大蔵省(現財務省)入省、96年銀行局調査課長、97年金融監督庁設立準備室主幹、98年の金融監督庁(現金融庁)発足から、検査部長、検査局長、監督局長を務め、2004〜07年に金融庁長官。22年2月から新生銀行会長。

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