私の97年11月/4 大蔵不祥事、最強官庁が陥落した日 奥山俊宏
1997年の金融危機から25年。「日本経済の転換点」と呼ばれるこの年に何が起き、その後どう変遷したのか。「私の97年11月」と題して関係者に総括してもらった。4人目は、ジャーナリスト、上智大学教授の奥山俊宏氏。
総会屋の次の特捜検察のターゲットはどこか。1997年11月、固唾(かたず)をのんで捜査の行方を注視する銀行や証券の金融エリートたち、司法記者たちの目の前に見えてきたのは最強官庁、大蔵省の姿だった。
容疑の構図は総会屋も大蔵官僚も同じ。銀行や証券会社にたかって、利益提供を受けたとの疑いだ。
現在の金融庁と財務省を合わせた存在が当時の大蔵省である。金融業界では、英語名のミニストリー・オブ・ファイナンスの頭文字MOFをとって、畏敬(いけい)の念とともに「モフ」と呼ばれるのが常だった。そのモフの高級官僚たちが、90年にバブル崩壊が始まってからというもの、不良債権処理の先送りと弥縫(びほう)策による政治的な辻褄(つじつま)合わせに奔走する一方、95年の大和銀行ニューヨーク支店事件では知識不足と能力不足を露呈。その揚げ句、国民の税金を理不尽にも損失穴埋めに投入せざるを得なくなった一例が、96年の住宅金融専門会社(住専)騒動である。
私は社会部の記者として95年、大蔵省の記者クラブに籍を置き、同省付置の証券取引等監視委員会を担当。その後、96年に住専の不良債権を追いかけ、その年の夏から検察を担当していた。監視委の情報を端緒に東京地検特捜部は97年3月以降、野村証券と第一勧業銀行、山一証券を総会屋への利益提供の疑いで次々と家宅捜索して大量の資料を差し押さえた。
調べを進めるにつれ、大蔵官僚によるたかりと接待の実情が浮かび上がってきた。
「形だけの処分」が裏目に
ところが、夏、大蔵省は意外な行動に出る。大臣官房金融検査部の検査官が第一勧業銀行に対する金融検査の期間中に同行から接待を受けた一部の事例について管理課長と検査官室長を戒告した上で、「全体を調査いたしまして、該当者2人ということで、懲戒処分に付したわけでございますが、その他については『ない』という報告でございました」と強弁したのだ。
そんな程度でないことは、モフ担なら誰もが知っていた。
「話を聴かせてください」。9月下旬の木曜日、特捜部は、都市銀行各行のモフ担を軒並み呼び出した。そのまま地検の係官が銀行に足を運び、企画部の交際費伝票や金融検査の資料を任意提出させて押収した。強制捜査ではなかったが、銀行側は従った。
週明けの月曜日には日本興業銀行など長期信用銀行のモフ担を呼び出し、資料を押収した。並行して9月18日、総会屋への利益提供の疑いで大和証券の本社を捜索。25日には日興証券を捜索した。
秋、特捜部の標的は大蔵省に定まりつつあった。年が明けた98年1月26日夕、検事らが隊列を組んで、正面玄関から大蔵省本庁舎に踏み込み、検査官室長らを「ノーパンしゃぶしゃぶ」接待など収賄容疑で逮捕した。蔵相と大蔵事務次官が辞任に追い込まれ、官房長は総務審議官に降格された。「大蔵省」の金看板の権威が地に落ちた瞬間。それは、大蔵省を頂点とする金融護送船団とメインバンクシステムからなる戦後日本の経済統治システムの終焉(しゅうえん)でもあったのだろう。
問題を隠蔽(いんぺい)し、その真の解決を弥縫策で先送りする旧大蔵省の体質は今も、あのとき官房長だった武藤敏郎氏が事務総長として取り仕切った五輪組織委、森友学園文書改ざん事件、巨額の公的債務など、日本の要路のあちこちに脈々と引き継がれているように見える。
(奥山俊宏・ジャーナリスト、上智大学教授)
■人物略歴
おくやま・としひろ
1966年岡山県生まれ。89年東京大学工学部原子力工学科卒業、同年朝日新聞社入社。東京社会部、大阪社会部などで金融事件取材を手掛ける。2013年から同社編集委員。22年4月から上智大学文学部新聞学科教授。著書に『バブル経済事件の深層』(共著、19年、岩波書店)など