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絵本作家・詩人・作詞家 やなせたかし 「せっかく生まれてきたんだから、楽しく生きたほうがいい」(2009年7月7日)
週刊エコノミストは、各界の第一人者にロングインタビューを試みてきました。2004年から「ワイドインタビュー問答有用」、2021年10月からは「情熱人」にバトンタッチして、息長く続けています。過去の記事を読み返してみると、今なお現役で活躍する人も、そして、今は亡き懐かしい人たちも。当時のインタビュー記事から、その名言を振り返ります。
「アンパンマン」の生みの親で、2013年に94歳でこの世を去った漫画家のやなせたかしさん。2009年7月7日の「問答有用」に登場し、人生や仕事について語った。当時の記事を再掲する。※記事中の事実関係、肩書、年齢等は全て当時のまま
ワイドインタビュー問答有用(2009年7月7日)より
「アンパンマン」の生みの親 やなせたかし
国民的キャラクター、アンパンマンの生みの親であるやなせたかしさん。90歳になった今も第一線で多彩な仕事を手がけている。漫画を描き始めて約60年、アンパンマン誕生から約40年、アニメ化約20年という節目に、その生き方や仕事への思いを聞いた。
── 今年2月で90歳。仕事では漫画を描き始めて約60年と節目の年ですが、まだまだ現役ですね。
やなせ この年までやるとは思わなかったのでびっくりしています。90歳を超えてなお仕事が増え続けるとは思いませんでした。今年はすでに本を6冊書いているし、抱えている仕事も多い。いくらかはお断りしていますが、次から次へ、あっちこっち来てくれと言われています。少しお手柔らかに頼むよと言うと、「先生、お身体は大事にしてください。でもうちの仕事だけはやってください」なんて言われます。
民放草創期に活躍
やなせさんは若いころから絵の仕事を志し、故郷の高知県を離れて東京高等工芸学校(現千葉大学工学部)図案科に入学。イラストやデザインを学び、卒業後は製薬会社宣伝部で働いたが、1941年徴兵。野戦重砲兵として中国に出征し、46年に帰国した。その後は高知新聞社を経て三越宣伝部でグラフィックデザイナーとして働くかたわら漫画を描き始める。組織で働くよりも、自由に作品を作りたいという気持ちが強まり、53年退社してフリーに。だが、漫画家としては無名の時代が長く続いた。
── 独立当時はどのような漫画を描いていたのですか。
やなせ 当時の雑誌には、大人向けの1コマや4コマ漫画のページが必ずあって、僕はもっぱらそういう仕事をしていました。でも、そのころから漫画の世界はストーリー漫画が主流になっていき、僕のやるような仕事は少なくなっていった。
代わりに、草創期の民放ラジオやテレビの仕事をいろいろやりました。文化放送でコントのシナリオを書いたり、日本教育テレビ(現テレビ朝日)のニュースショーで台本構成をしたり。当時ラジオコントとして書いた「やさしいライオン」という作品を、その後自分でラジオドラマ、アニメ映画、絵本などにしていった。70年代の初めに出したこの絵本がよく売れて、そこで絵本をもっと、という話になって生まれたのが、アンパンマンです。
アンパンマンが子どもたちに大人気になったことで、僕もいつのまにか児童ものというか、幼年ものの作家になった。88年にアンパンマンがアニメ化されると、さらに子ども向けの漫画や絵本の仕事が増えていきました。
もともと子ども向けの仕事をしたいと思っていたわけではなかったんだけど、いろいろなつながりや仕事の成り行きで、この世界へ入ってしまったという感じです。
── 作詞家としても早くから活躍してこられました。
やなせ 歌を作るのは昔から好きで、ラジオドラマを頼まれると、ついでにテーマソングも作っていました。歌詞だけでなく曲も作るし、84歳で歌手デビューもしたんですよ。
「手のひらを太陽に」を作ったのは60年代の初めです。教育テレビのニュースショーで、今月の歌というシリーズを企画し、僕が詞を書いて、いずみたくに作曲を頼みました。いずみたくと知り合ったのは、その前に永六輔から舞台装置を作る仕事を頼まれたときですね。
この曲は「NHKみんなの歌」や音楽の教科書に採用され、全国的に有名になりました。すると、日本童謡協会から声がかかって、いつのまにかその会員にもなってしまった。アンパンマンのテーマソングの歌詞も、全部自分で作っています。
手塚治虫作品でキャラクター作り
── 多彩で素晴らしい才能ですが、ご自身ではどう評価されますか。
やなせ 僕はもともとデザイナーだったので、色を使うのは割と得意です。漫画家としては、ギャグを使うのが得意だった。だから、僕の描く絵本は漫画的です。デザインとギャグが一緒になっている。人間にはいろんな才能がありますが、僕の才能は薄いのです。漫画家仲間と比べても、絵のうまさではかなわない。
ただ、キャラクターを作る才能はあるのではないかと思います。60年代の終わりに、手塚治虫からアニメ映画「千夜一夜物語」の美術監督を頼まれました。脚本をもとにキャラクターのデザインを起こし、作画の特徴や色などを決める役割です。アニメのことは知らないままスタジオに行き、脚本を読んでキャラクターを作ったんですが、なぜかスラスラとできあがる。キャラクターがきっちりしていれば、ストーリーもうまくできる。それがドラマの原則です。
「千夜一夜」がヒットしたので、手塚治虫がお礼として、「やなせさんの好きなアニメをうちのスタジオで作っていい」と言ってくれたんです。そこで自分の演出・脚本でアニメ版「やさしいライオン」を作ったら、毎日映画コンクール大藤信郎賞を受賞した。それでしばらく、アニメの仕事もすることになったわけです。
── アニメ作りの才能もあった。
やなせ 漫画とアニメは非常に違います。手塚治虫は天才だから両方やっていましたが、僕は無理だと思ったのでアニメはすぐにやめました。アンパンマンがアニメ化された時も、原作は提供するけどアニメの仕事はしないと宣言していました。
ところが実際にアニメが始まると、気になるところがいろいろ出てきて、結局深入りしてしまった。アニメに登場するキャラクターもたくさん描き、アンパンマンだけで2000に余るキャラクターを作りました。そのころからアンパンマン以外でも(地方の名産品などの)キャラクターの仕事が増え、キャラクター作家のようになってしまった。これも自分では思いがけなかった道です。
あんパンの頭を持ち、焼け焦げたマントを着て、おなかのすいた人や動物のところに飛んでいき、自分の頭を食べさせて助けるのがアンパンマンの基本。アンパンマンのほか、作り手のジャムおじさんや仲間のしょくぱんまん、メロンパンナちゃん、敵役のばいきんまんなど多数のキャラクターが40年の間に続々と登場し、子どもたちから絶大な支持を得ている。
戦争体験と「正義」への疑問
── アンパンマンというキャラクターが生まれたきっかけは。
やなせ 60年代後半から70年代にかけて、ウルトラマンや仮面ライダーといったヒーローものがはやっていました。ヒーローは悪いやつをやっつけるのが仕事。町が破壊され、巻き添えで赤ちゃんが死んだりしても、正義が勝ったということでおしまい。それが本当に正義だといえるのかという疑問がありました。
僕らの世代は正義の戦いだといって戦争をした。アメリカは戦争を終結させるために正しいといって原爆を落とした。しかし、それで多くの人の命が失われたわけです。戦っている人間は、どちらも相手が悪い、自分が正義だという。A国の正義とB国の正義は違う。どちらが正義かよくわからないんですね。
一方、いつの時代にも飢えて死んでいく人がたくさんいます。今もアフリカなどには大勢苦しんでいる人がいる。本当の正義の味方なら、まず飢えている人を助けるべきでしょう。その後で正しいとか正しくないとか主義が違うとかいうならまだしも、罪もなく死んでいく人を見捨てて戦っているのはおかしい。
だから僕は、飢える人を助けるヒーローを作ろうと思ったのです。(68年10月の雑誌の連載に登場した)最初の「あんぱんまん」は、空を飛んで国境を越え、あんパンを配るおじさんの話。しかし、飛行許可を取っていませんから国境を越えるときに未確認飛行物体として撃ち落とされてしまう。そういう、ちょっと苦い感じの大人向けの話だったんです。
── それがアンパンマンの前身ですか。ずいぶん違いますね。
やなせ その時はさしたる反響がなかったのですが、70年代初めに出した「やさしいライオン」の絵本がよく売れたことで、出版社のフレーベル館から、また描いてくれと依頼がきた。そこで73年に出したのが、今に続く「あんぱんまん」(当時はひらがなだった)です。
編集者の反応は非常に悪かった。「あんパンが空を飛んでいって顔を食べさせるなんて、荒唐無稽」というわけです。「残酷だ」という批判もありました。でも、なぜか子どもたちには受けた。受けてしまうと出版社も態度が変わって、「もっと描いてください」と。それからは1年に25冊ものペースで描くようになり、しばらくは他の仕事もせずにアンパンマンばかり描いていました。
── 88年にはアニメ化された。
やなせ アニメ化の話はたくさんありましたが、各局とも「今の子どもたちにはこういう地味なものは受けない」という上層部の判断で却下。ただ、日本テレビの担当者が熱心で、3年間企画を出しては却下を繰り返したあげく、そこまで熱心ならやってみるかということで始まりました。ちょうど昭和の終わり、88年の10月でした。1年くらいで終わるだろうと思っていたら、これがまさか20年以上も続くとは。
96年には僕の故郷の高知、07年には横浜にアンパンマンミュージアムができました。数ある漫画のミュージアムでも、2館あるのはアンパンマンだけではないでしょうか。今後も別の土地で建設の計画があります。
戦争を体験し、「飢え」の苦しさを実感したやなせさんの、「飢えた人を助けるのが本当の正義」というメッセージは、「飽食の時代」を生きる現在のアンパンマンにも変わらず貫かれている。どの作品にも、アンパンマンが自分の顔をちぎって飢えた動物を助けるシーンが入っており、子どもたちはそれを食い入るように見ている。
── 現代の子どもに感じることは。
やなせ いまの子は情報量が多くて頭がいい。みんなかわいくて小ぎれいにしていて、鼻を垂らしている子なんかいません。僕らのころは、鼻を垂らしてランニングシャツ1枚で跳ね回り、全身傷だらけみたいな子ばかりだった。
今の子のほうが優れているけれども、とても弱い部分もあります。体力的、精神的に弱い。アンパンマンショーでも、ちょっと場内が暗くなっただけで泣き出す子がいます。だから、あまり刺激的なことはできない。子どもの数が減っているからか、ワガママにもなっています。
── それでも、アンパンマンは変わらず人気です。
やなせ それが不思議。アンパンマンが他のアニメと違うのは、赤ちゃんからファンがいることです。アニメは普通、4~5歳から見始めるものですが、アンパンマンは違う。映画でも展覧会でも、ベビーカーに乗った赤ちゃんがやってくる。
アンパンマンの映画をやっている映画館に行くと、後ろからはガラガラに見えるんです。すいてるなと思って前に回ると、実は満席。お客が小さな幼児ばかりで、前から見えないだけだったんです。私は別に赤ちゃんに受けようと思ってやっているわけではないんですけどね。
ある新聞社が「生まれた子どもが最初に言う言葉は何か」を調査しました。「ママ」が1番ですが、「アンパンマン」も上位に入っている。何か本能で感じるものがあるんでしょうね。反響は年々大きくなっていて、展覧会やショーなどのイベントでは集客しすぎて危険な状態になるほど。多くは整理券を出して入場を制限しています。
── アンパンマンには魅力的なキャラクターが多いですね。
やなせ 1番成功したのはばいきんまんです。4話目から登場しましたが、そこから話が面白くなった。敵役を出そうと思って、食品の敵といえば、やはり腐敗菌だろうと。ばいきんまんのほうが好きという人もいるほど人気が出ました。
われわれは常にばい菌やウイルスと戦っています。これらは完全に撲滅することはできず、人類との戦いは永遠に続くと学者も言っています。強力な薬を作っても、必ずその耐性菌が出てくる。それなら、共生することを考えたほうがいい。
── アンパンマンとばいきんまんも共生しているのですね。
やなせ はい。アンパンマン対ばいきんまんの戦いは永遠に終わらない。人間はばい菌と戦うことで抵抗力がつく。アンパンマンもパンだから、酵母菌がないと作れない。助けられている面もあるんです。戦いながら共生していくしかないんです。
両方のバランスがとれている状態が健康なんですね。人間もいろんな病気にかかることで免疫ができる。戦いが続くなかで生きる力を得ていく。そういうものだと思います。
── 昔の子どもは、その点では強かったのでしょうね。
やなせ そういうところもあると思います。駄菓子屋なんて不衛生そのものでした。大腸菌がそこらじゅうにいたと思います。かまわず食べていましたが、それでひどい病気になることはなかった。
生きる楽しさを伝え続けたい
── これからやりたいことは。
やなせ あとは死ぬだけです(笑)。アンパンマンミュージアムをさらに建てられれば、建てます。あとは、世の中の役に立つことをしたいですね。病院の子どもを慰問するなど、自分の力でできる範囲で。
仕事は続けていきます。なるべく、生きる希望につながる作品を作ろうと思います。自殺者が増えているというニュースは悲しいことです。死んでは花も実もない、おしまいなんです。せっかく生まれてきたんだから、楽しく生きたほうがいい。僕の仕事がその役に立って、なるべく楽しく死ねたらいいですね。
「アンパンマンとばいきんまんは永遠に戦い続けながら共生していくんです」
●プロフィール● やなせ たかし
本名・柳瀬嵩。1919年高知県生まれ。東京高等工芸学校図案科(現千葉大学工学部)卒業。製薬会社勤務を経て41年に徴兵され、中国に出征。戦後は高知新聞社、三越勤務を経て53年からフリー。三越時代に漫画を描き始める。73年「あんぱんまん」が人気化し、88年テレビアニメ「それいけ!アンパンマン」開始。73~2003年『詩とメルヘン』編集長。「てのひらを太陽に」などの作詞家としても知られる。日本漫画家協会理事長なども務める。