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週刊エコノミスト Online 創刊100年特集~Archives

デザイナー 森英恵 「『自分は何なのか』ということを認識する」(2004年10月12日)

週刊エコノミストは、各界の第一人者にロングインタビューを試みてきました。2004年から「ワイドインタビュー問答有用」、2021年10月からは「情熱人」にバトンタッチして、息長く続けています。過去の記事を読み返してみると、今なお現役で活躍する人も、そして、今は亡き懐かしい人たちも。当時のインタビュー記事から、その名言を振り返ります。


日本のファッションデザイナーの草分けとして世界を舞台に活躍し、2022年8月に96歳でこの世を去った森英恵さん。週刊エコノミスト2004年10月12日号の「問答有用」に登場し、ファッションの道に進んだ経緯や、世界への挑戦の道のりについて語った。当時の記事を再掲する。※記事中の事実関係、肩書、年齢等は全て当時のまま

ワイドインタビュー問答有用(2004年10月12日)より

日本の美を世界に伝えたデザイナー 森 英恵

9月9日に東京・新国立劇場で開催されたショーを最後に第一線から退いた森英恵さん。長年にわたり欧米で活躍してきた経験から、日本人だからこそわかる日本文化の重要性を説く。

―― ファッションの道に進もうと思ったきっかけは。

森 子供のころから物を作ることが大好きで、できればアーティストになりたいと思っていました。ところが、外科医だった父は、子供たちに後を継がせようと考えていたんです。「女が仕事をするなら医者、そうでなければお嫁さんに」と言う父とは何度も喧嘩しました。兄も姉も医者になりましたが、私は抵抗して東京女子大学に進みました。

 大学卒業後の1947年に結婚し、いざ主婦になってみると、時間はあるし物足りない。何かしたくなってきました。

 そのころは、自分が着たいと思うような服がなかなか見つからなかった。また、子供が生まれたらかわいい服を作ってあげたい、夫のシャツぐらいは縫いたいという気持ちもあって、ドレスメーカー女学院に入学しました。型紙作りやボタンホール作りは退屈でしたけれど、作品を作るようになるととても面白かったですね。

 ドレスメーカー女学院を卒業後、51年、新宿にスタジオを設立。数人のスタッフと服作りを始めた。色鮮やかな輸入布地を使ったワンピースやスーツは、おしゃれに敏感な若い女性を中心に絶対的な支持を集めた。ショーウインドーのマネキンに作品を着せるとすぐに売れてしまい、代わりに紙を巻きつけておく状態が続いたほどだったという。

映画全盛期の衣装を担当

―― 映画作品の衣装を数多く手がけてきたそうですね。

森 当時、新宿は映画関係者の溜まり場になっていました。ある日、日活映画の美術監督と衣装係の男性がアトリエを訪ねてきて、「青春ものや文芸作品を作るので、一緒にやらないか」と衣装の仕事に誘われたんです。若かったし、面白そうだったので、お引き受けしました。

 デザイナーが数少ない時代だったので、日活だけでなく、大映、新東宝、松竹でも仕事をしました。映画は見る人に夢を与えるのが仕事ですから、衣装も夢のあるデザインが受け入れられて楽しかったですね。ただ、あまりに忙しくて、一時は体をこわしてしまいました。

 50年代は日本映画全盛期で、森さんが衣装を担当した作品は「太陽の季節」「狂った果実」「彼岸花」「秋日和」など数百本以上に上る。やがて日本映画は斜陽を迎え、衣装の仕事も減ったことから、森さんは映画の世界を離れ、アトリエで一般人のための服を作る仕事に専念する。私生活では2人目の子供を出産するなど、順風満帆に見えたが、忙しすぎるデザイナーの仕事に疲れ果ててもいた。そこで、周囲のすすめもあって、61年1月に1カ月間のパリ旅行に出た。

―― パリでは、どのようにして過ごしたのですか。

森 オートクチュール(高級注文服)のコレクションを見て回りました。フランスでは、国を挙げてオートクチュールをサポートする体制があります。デザイナーは「サンディカ(パリ・オートクチュール組合)」に加盟しており、年2回コレクションを発表し、その作品をもとにお客様の注文を受けます。生地の仕入れからデザイン、仕立てと何から何までデザイナーが1人でこなさなければならない日本と違い、分業システムも整っている。これなら私も疲れ果てずにすむのではないかと思いました。

森英恵さん=2002年撮影
森英恵さん=2002年撮影

 当時は、男性が女性に服を買ってあげるのが当たり前の時代。デザイナーもほとんどが男性で、映画「風と共に去りぬ」の主人公スカーレット・オハラが身につけていたような、ウエストを締め付けた、そんな作られた女性像を反映した作品が目立ちました。ところが、ココ・シャネルがまだ健在だったシャネルのコレクションは、他のブランドと何かが違う。デザイナー自身が女性ということもあって、自由な女性の美しさを表現していて新鮮でした。

 さっそくシャネルのアトリエを訪れたところ、初めての東洋人のお客だと言われました。当時、日本では、髪を茶色に染めたり、パーマをかけるのが流行していましたが、私は忙しかったこともあって、まっすぐな黒髪のままでした。しかし、シャネルのサロンのマダムに「あなたのまっすぐな黒髪はなんて素敵なの」とほめられ、「違い」の重要性を認識しました。

 シャネルは、ブラウスやスカートなどやわらかい仕事をするアトリエと、ジャケットなどテーラーメイドの仕事をするアトリエの二つに分かれていました。日本では、タイトスカートは洋裁学校で最初に習うほど簡単で、私のところでも経験の浅い人に縫わせていました。しかしフランスでは、ブラウスやスカートは人間の体に一番近い部分だから、着心地が肝心で、女性でなければわからないことも多いという理由から、熟練した女性が仮縫いをする。一方、ジャケットは背広の影響を受けているせいか、男性が縫っていました。こうしたシステムを間近で見たことは、洋裁学校に何年通うよりも勉強になったと思います。

 いったん帰国した森さんは、同年夏、今度はニューヨークを旅行する。戦後、日本に多大な影響をもたらしたアメリカの文化を見たい、という気持ちからだった。しかし、現地では日本に対する認知度の低さを知り、衝撃を受けたという。

「蝶々夫人」の日本人女性像に憤慨

―― 65年に初めての海外コレクションを発表する場としてニューヨークを選んだ理由は。

森英恵さん=東京都港区北青山のハナエモリ・オートクチュールで2004年7月撮影
森英恵さん=東京都港区北青山のハナエモリ・オートクチュールで2004年7月撮影

森 プライドの高いパリと違い、ニューヨークは自由な街で、行く先々で歓迎を受けました。ところが現地の人と話をしてみると、日本のことを全くといっていいほど知らない。アジアは一つと思われているのか、中国も韓国もタイも日本もごっちゃになっている。日本製品がデパートの地下で安く売られていることもみじめでした。

 現地で上演されていたオペラ「蝶々夫人」では、主人公の日本人女性が乙姫様のような格好で、下駄のまま畳の上を歩いている。しかも、アメリカ人の男にだまされた、かわいそうな少女という描き方が悲しかった。戦争に負けた引け目もあったのでしょうが、日本の女性はこんなんじゃない、と強く思いました。

 ニューヨークに進出したのは、「日本は伝統もあるし、良質な技術もある」とアメリカ人に知らせたいという気持ちからです。日本の生地を使い、日本人の職人が仕立てたものを日本から送る。それを、ヨーロッパ産の高級品を扱うデパートの同じ売り場で売るのが目標でした。

 森さんの作品に使われる蝶のモチーフは、日本の女性の華麗さを象徴している。日本的なデザインのドレスやスーツは、「バーグドルフ・グッドマン」「サックス・フィフスアベニュー」「ヘンリーベンデル」「ロード&テイラー」などニューヨークの有名デパートで、珍しさもあって人気を集めた。顧客には、女優で後にモナコ王妃となった故グレース・ケリーや、故レーガン大統領夫人のナンシー・レーガンなど有名人が名を連ねた。森さん自身、「こんなにうまくいっていいのか」と思うほど成功したという。

グレース王妃がパリ進出の契機

―― パリで77年にオートクチュールのメゾンを開きましたが、そのきっかけは。

森 70年代のアメリカはベトナム戦争が泥沼化し、反戦運動も活発になっていて、きれいな服を作ることに抵抗を感じるようになっていました。そんなとき、グレース王妃から、モナコの新しいホテルのチャリティーショーに出品しないかとお誘いを受けたんです。

 このときのファッションショーが評判となり、パリでオートクチュールを始めるきっかけになりました。東洋人のデザイナーは珍しく、マスコミにいろいろ取り上げられました。1年目は組合のウエーティングリストに載せられ、2シーズン目に正式会員として認められた。77年のことです。それから27年間、パリでコレクションを発表し続けました。

 森さんの成功は、デザイナーとしての才能はもちろんのこと、夫(故・森賢氏)の尽力も大きい。新宿にアトリエを設立した3年後には会社を辞め、森さんを経営面から支えてきた。さらに、成長した2人の息子や長男の妻など、家族ぐるみでビジネスに携わっている。 しかし、90年代の多角経営の失敗などもあって、2002年3月、プレタポルテを含むライセンス事業を三井物産や英ロスチャイルドに売却。HANAE MORIブランドは、三井物産の子会社「ハナエモリ・アソシエイツ」に移管され、オートクチュール事業は新会社「ハナエモリ・オートクチュール」で継続している。

―― 後継者についてはどのように考えているのですか。

森 私には2人の息子がいるし、彼らはファッションが好きです。でも、デザイナーというのは、時代を見つめ、しかも少し先取りしたものを形にして発表するのが仕事で、「私はこういうライフスタイルが好きだ」「こうありたい」といった哲学のようなものが必要です。ファッションは、感覚的なこととビジネスの両方がうまくいかないと成功しません。

 「ハナエモリ・アソシエイツ」には、後継者はできれば日本人がいい、と言ってあります。しかし、「東西の融合」をテーマに長年、フランスでオートクチュールを手がけてきたので、フランス人かイタリア人でもかまわないし、アメリカ人の合理主義もいいかなと思います。

 私も元気なので、しばらくは服作りを続けていきたいですね。

 ファッション業界は今、変革期を迎えており、有名ブランドはいくつかの巨大資本の傘下に集約されている。一方、フランスのオートクチュールは衰退傾向にあり、森さんが組合に加盟した77年に28あったブランドは、現在9ブランドしかない。森さんも、今年7月に発表したコレクションを最後に、パリ・オートクチュールから引退した。7月のショーでは、歌舞伎役者の顔をデザインしたドレスやちりめん生地のワンピースなど、これまで以上に日本を意識した作品が目立った。

日本は人材の国

―― 日本の若いデザイナーたちに伝えたいことは。

森 バブル時代には経済的な後押しをしてくれる企業や人が多くいたので、日本人デザイナーが海外で活躍しやすかったのですが、この10年余りは不況でそういうことも難しくなっています。パリやミラノは日本から遠く、作品を持っていくだけで費用もかかるし、苦労も多い。しかも、現地の人たちの批評は厳しいので、1~2回でやめてしまう人もいます。

森英恵さん=2004年8月撮影
森英恵さん=2004年8月撮影

 でも、日本は石油などの資源が出るわけでもないし、あるのは人材だけです。日本人は優秀なので、どれだけ磨きをかけていくかがポイント。私も、これまでの経験を生かして、若い人たちを応援していきたいと思います。今年のパリのコレクションでは、日本の学生が卒業制作に作ったかんざしを使ったところ、現地の『ヘラルド・トリビューン』紙にその学生の名前が取り上げられたりしました。

 日本語は独特の言語で、外国で通用するわけではありません。日本のアニメやマンガが海外で流行していますが、ファッションとマンガに共通するのは、言葉ではなく感覚に訴えることです。最近では、英語やフランス語を流暢に操る人も増えているとはいえ、まず自分のルーツをしっかり確立したうえで、世界に通用するような表現力を持つことがこれからの日本人デザイナーに求められていると思います。

―― 日本の若者の間では、海外の高級ブランドが人気です。

森 若いうちは、いろいろ経験することで目が肥えてくるものです。しかし、これだけ国境の壁が低くなってくると、「根無し草」が一番だめだと思います。アメリカでもヨーロッパでも、「あなたはどこから来たの」と問われます。まず、センスを磨くには、個性を作り上げることが重要ですが、そのためには、「自分は何なのか」ということを認識する必要があると思います。(聞き手=村上麻里子・編集部)

「こんなにうまくいっていいのか、と思った」


●プロフィール● もり はなえ

1926年島根県生まれ。47年東京女子大学高等学部卒業。結婚後、ドレスメーカー女学院で学び、51年新宿にスタジオ「ひよしや」設立。63年にプレタポルテ部門「ヴィヴィド」社創業。65年にニューヨークでコレクションを発表。77年にはパリにオートクチュールのメゾンをオープン、以後27年間にわたり、唯一の東洋人デザイナーとして活躍した。

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