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週刊エコノミスト Online 日本人の知らないアメリカ

なぜ3割もの国民が「不正」を疑うのか 中間選挙前に知っておきたい米選挙制度の不都合な真実 中岡望

アメリカでは国民の約30%が「大統領選挙で不正が行われた」と考えている Bloomberg
アメリカでは国民の約30%が「大統領選挙で不正が行われた」と考えている Bloomberg

 長い間、日本人はアメリカを民主主義のモデルだと思ってきた。だが、そのアメリカの民主主義が危機に瀕している。民主主義の基本は、「公平な選挙制度」と「選挙結果の受け入れ」、そして「円滑な政権交代」である。その全てが崩壊寸前の状態にあるのである。私たちには理解できない、世界一の超大国アメリカの全貌に迫る連載「日本人の知らないアメリカ」。今回は中間選挙の投開票を前に、前編後編の2回に分けてアメリカの選挙制度の歴史とその問題点に焦点を当てる。

多くのアメリカ人は選挙制度の公平性を信じていない

 2021年1月6日、大統領選挙の結果は無効であると主張するトランプ派の人々が、議事堂に乱入した。上院では大統領選挙結果の認証手続きが行われている最中であった。極右に主導された暴徒は、「南部連合」の旗を掲げ、認証会議の議長を務めるペンス副大統領や上院議員の殺害を叫んでいた。最終的に上院は大統領選挙の結果を認証し、バイデン大統領が誕生した。

大統領選の結果に反発し、連邦議会の議事堂に突入したデモ隊 Bloomberg
大統領選の結果に反発し、連邦議会の議事堂に突入したデモ隊 Bloomberg

 だが、話はここで終わらない。

 現在、アメリカでは中間選挙が行われている。『ワシントン・ポスト』が、共和党の候補者に対して興味深い調査を行っている(2022年10月6日、「A majority of GPO nominees -299 in all-deny the 2020 election results」)。同紙は「11月に行われる下院選挙、上院選挙、州知事などの選挙で共和党の指名を受けている候補者の大多数(全員で299人)が前回の大統領選挙の結果を否定するか、疑問を呈している」と指摘している。

 さらに米クイニピアック大学の調査(2021年5月26日)では、共和党支持者の65%が「大統領選挙は正当ではない」と答えている。正当であると答えた比率は、わずか25%に過ぎない。アメリカ全体では、64%が正当、29%が不当であると答えている。国民の約30%が、大統領選挙で不正が行われたと考えているわけだ。多くのアメリカ人は、民主主義の根幹である選挙制度の公正性を信じていないのである。

 アメリカの政治の歴史は、選挙制度を巡る闘争の歴史でもあった。有権者を拡大しようとする政治勢力と、制限しようとする政治勢力のせめぎ合いの歴史だ。その結果、重大な欠陥を抱えた選挙制度が導入され、現在の政治に深刻な影を落としている。そこで、なぜアメリカがこの独特な選挙制度を作り上げてきたのかを検討しながら、今まさに起こっている選挙制度を巡る政治的対立の根源を明らかにしていこう。

最初の議会では「各州に1票」の投票権が与えられた

 アメリカは13州が連合して成立した国である。1781年2月に批准された最初の憲法「連合規約(Article of Confederation)」では、連邦に加入した州に大陸会議(連邦議会)で1票権が与えられた。それは各州が同等の権利を持つことを意味した。州の人口や経済力は考慮されなかった。独立戦争を勝ち抜くために13州が一致団結する必要があったからだ。

 連邦会議には課税権もなく、常設軍も置かれていなかった。連合規約の第1条で、新国家の名称を「the United States(アメリカ合州国)」とすると規定。第2条には「各州は議会によって連邦に明確に移譲されていない主権、自由、独立、すべての権力と司法権を保有する」と記された。すなわち、州は多くの主権を持ち続けてきたのである。第5条では各州の代表者は1人以上7人未満であると規定された。ただし、議決を必要とする案件に関しては、各州は投票権を1票しか行使できない、とされた。

 連合規約には、誕生したばかりの新生国家を守る法律としては深刻な欠陥があった。すぐに連合規約の改正が大きな課題となったが、改正では不十分だとして新憲法制定の動きが始まった。ジェームズ・マディソンやアレキサンダー・ハミルトンは「改正ではなく、より強力な中央政府を樹立するために新憲法の制定が必要だ」と主張した。他方、権力の集中を恐れるトーマス・ジェファーソンたちは新憲法制定に反対した。最終的に1787年5月から9月まで新憲法草案を起草するためにフィラデルフィアで「憲法会議」が開催された。

共和党に有利な「各州に上院議員2人」を割り当てる制度

 憲法会議で最大の課題となったのは、各州の代表権の配分を巡る問題であった。多くの人口を擁する大きな州と人口が少ない小さな州の利害対立が表面化した。小さな州は、人口や経済力に基づいて議員を配分することは、自分たちに不利になると主張した。激しい議論を経て、最終的に人口比率で議員を決める「下院」と各州が2名の議員を平等に与えられる「上院」を設置する2院制を導入することで妥協が成立した。

 人口に関わらず公平に2人の上院議員を割り当てるというのは、小さな州にとって極めて有利な制度であった。2019年の各州の人口を比較すると、最も多いカリフォルニア州の人口が約3950万人、一方、最も少ないワイオミング州は約58万人である。人口の68倍の差があるにもかかわらず、両州には同じ2人の上院議員が割り当てられている。現在、共和党が地盤とする州は小さい州が多い。つまり、共和党は上院で極めて有利な立場にあるといえる。

 新憲法の第2条は、10年毎に国勢調査を行い、人口の変化に応じて下院議員の各州への割り当てを修正すると規定している。同時に「各州は少なくとも1人の下院議員を選出する」と定めている。現在、下院議員が1人しか割り当てられていない州は7州ある(アラスカ州、デラウエア州、モンタナ州、ノースダコタ州、バーモント州、ワイオミング州)。

 ちなみに、日本では1票の格差が大きな問題となり、訴訟が繰り返し行われている。最高裁は「違憲状況」という判決を下しているが、各県の議員配分の不平等は是正されない。アメリカでは10年毎に自動的に州に対する下院議員の割り当て数が調整されるので、日本のような問題は起こらない。

黒人奴隷の扱いを巡る南北の対立の歴史

 2院制を導入したからといって問題が解決したわけではなかった。州に割り当てられる下院議員の数を決める際の根拠となる「州の人口」をどう規定するかという課題が残った。南部の奴隷州は北部の自由州に比べると有権者である白人の人口が少なかった。そのことは当然、州に割り当てられる議員の数に影響を与えた。

 そこで南部の奴隷州が提案したのが、奴隷を人口に算入するという案である。これによって南部の奴隷州は多くの下院議員を確保できる。これに対し、北部の自由州が提出したのは、州が連邦政府に納入する直接税の課税のベースになる「富」を算定する際に奴隷の数を考慮する、という妥協案であった。

 結果的に、憲法第2条に次のように議員配分の方式がうたわれることとなった。「下院議員と直接税は、連邦に加わる各州の人口に比例して各州間で配分される。各州の人口は年期を定めて労務に服する者を含み、納税の義務のないインディアンを除いた自由人の総数に、自由人以外のすべての者の数(具体的には奴隷)の5分の3を加えたものとする」。普通の言葉に置き換えると、「奴隷人口の5分の3人を1人と数えて州の人口に加える」ということである。この制度は、南部の奴隷州にとっては有利な制度であった。

 当然のことながら、当時は奴隷には選挙権がなかった。ネイティブ・アメリカンや女性にも選挙権は与えられていなかった。ジェファーソンが起草した「独立宣言」には「すべての人間は生まれながらにして平等にして、創造主によって生命、自由、および幸福追求を含む不可侵の権利が与えられている」と書かれている。ここに書かれている「人間」の英語の原語は「man」である。正確に言えば、これを「人間」と訳すのは誤訳だ。「man」は「人間」ではなく、「男性」と訳すべきであろう。アメリカの女性参政権運動は過酷を極め、多くの女性運動家は迫害を受けた。女性の参政権の実現は、1920年の憲法修正第19条の批准まで待たなければならなかった。

憲法改正による黒人への投票権付与

 南北戦争の結果、共和党初代大統領リンカーンの下で1865年に批准された憲法修正第13条によって、奴隷制度が廃止された。さらに1868年に「合衆国内で生まれたか、帰化した者は合州国の市民であり、その居住する州の市民である。いかなる州も合州国市民の特権を制約する法律を制定してはならない」という公民権が規定された。さらに1870年の憲法修正第15条は「人種、肌の色、または前に奴隷状態にあったことを理由に合州国市民の投票権を奪い、制限してはならない」と規定し、黒人にも平等な投票権が保障された。

共和党初代大統領のリンカーンの下、1865年に批准された憲法修正第13条によって奴隷制度が廃止された
共和党初代大統領のリンカーンの下、1865年に批准された憲法修正第13条によって奴隷制度が廃止された

 このことは、南部の州に二つの変化をもたらした。ひとつは、ある日突然、多数の黒人有権者が登場したという点である。1860年の南部の州の奴隷人口比率を見ると、アラバマ州で約45%、フロリダ州で約44%、ジョージア州で44%、ルイジアナ州で47%、ミシシッピー州で約55%、南カロライナ州で57%、テキサス州で30%を占めていた。南部15州全体でみると、奴隷人口比率は約32%と極めて高かった。投票権が与えられた黒人が実際に投票すれば、南部の政治勢力図が劇的に変わることになる。黒人有権者が黒人候補に投票すれば、州議会や連邦議会に黒人議員が多数誕生することにもなる。

 もう一つは、「5分の3ルール」の廃止によって、州ごとの下院議員の配分を決定する「人口」が南部において計算上、増えたという点である。州の人口に応じて下院議員の議席が案分されるため、南部の州では下院の議席数が増える結果となった。それは政治構造の変化を引き起こした。

失敗した連邦政府の南部諸州の管理政策

 南北戦争後、連邦政府は南部を連邦軍の支配下に置き、南部の民主化を進めた。連邦議会は、南北統合を目指す「連邦再建法(Reconstruction Acts)」を1867年に可決した。1865年から1877年の期間は「連邦再建時代」と呼ばれている。黒人の権利を守るために連邦政府は「解放民局」という監視組織を南部に設置し、南部の黒人差別を取り締まった。

南北戦争後、連邦政府は南部を連邦軍の支配下に置き、南部の民主化を進めたが… Bloomberg
南北戦争後、連邦政府は南部を連邦軍の支配下に置き、南部の民主化を進めたが… Bloomberg

 黒人に選挙権と被選挙権が与えられ、1870年にミシッシッピー州から黒人として最初の上院議員、ハイラム・ローズ・リベルズが就任する(当時、上院議員は公選制で選ばれるのではなく、州議会が決定していた。上院議員の公選制が導入されたのは、1913年に憲法修正第17条が批准されてからであり、選挙で選ばれた初の黒人上院議員が誕生するのは1966年と、かなり先の話になる)。なお、最初に選挙で選ばれた黒人下院議員は、1869年に南カロライナ州から選出されたジョセフ・レイニー議員である。

 ここから、多くの黒人が州議会議員などの公職に就くようになる。これは南部の白人支配構造を変えるものであった。

連邦再建政策の失敗と南部の白人至上主義者の復権

 だが、こうした連邦政府の政策は早々と頓挫した。1868年の大統領選挙で民主党の大統領候補のホレイショ―・シーモアが南部からの連邦軍の撤退を主張する。さらに民主党内の白人至上主義者たちが南部の州権回復を主張し始めた。ミシッシッピー州では白人主導の「南部復権」を主張する民主党の民兵と民主化を進めようとする州政府の州兵の間で戦闘が繰り返された。当時の共和党のグラント大統領は積極的に州政府を支援しなかった。連邦政府の南部支配は次第に弱くなっていく。1876年の大統領選挙で「連邦再建政策」は支持を失い、連邦議会が「連邦再建政策の終焉」を決議し、奴隷制度廃止を訴えてきたはずの共和党も連邦軍の南部からの撤退に同意した。

 さらに共和党はルイジアナ州、フロリダ州、南カロライナ州で旧南部連合の指導者に州の政治を委ねることに同意した。連邦政府は南部の民主化に失敗し、南北戦争の成果を放棄したのである。こうして旧勢力による「南部復興(Southern Redemption)」が始まった。南部連合の指導者が無傷で復活したのである。

「ジム・クロウ法」で始まった黒人の排除

 南部復古が始まると、旧南部連合の指導者が大挙して公職に復帰する。連邦政府は“反乱軍”である南部連合の指導者を処刑することはなかった。旧体制が復活したのである。彼らは再び白人至上主義の体制の構築を目指した。だが、そのためにしなければならないことがあった。それは選挙から黒人を排除することである。黒人の公民権を否定する動きが出てくる。

 ちなみに日本では、リンカーン大統領が「奴隷解放宣」を出して、奴隷制度が廃止されたと単純に理解されている。リンカーン大統領の奴隷解放宣言は「大統領令」であり、正式な奴隷制度の廃止ではない。さらに南部連合に加担しなかった奴隷州での奴隷制度は認められるという中途半端な内容であった。リンカーン大統領暗殺後、民主党のアンドリュー・ジョンソン大統領が後継者となった。同大統領は「州権論者」で、投票権に関する権限は州政府にあって連邦政府にはないという考えを持っていた。またリンカーン大統領と比べると、南部連合に同調的で奴隷制度廃止に積極的ではなかった。ちなみにジョンソン大統領は弾劾裁判に掛けられた最初の大統領である。

 ジョンソン政権の下、1865年と1866年に南部諸州は相次いで「ブラック・コード(黒人法)」を制定。黒人に強制的な労働契約の条件を強要し、違反すると逮捕や殴打、強制労働を科した。黒人の財産所有、結婚(白人と黒人に結婚の禁止)、契約、裁判での証言、白人学校と黒人学校の分離、バスやレストランでの座席の白人と黒人の公共の場での分離が行われた。白人至上主義者の過激集団KKKが結成されたのは1865年である。

 1870年に憲法修正第15条(選挙権の拡大)が批准され、黒人の投票権が法的に保障された。それに伴い一時的に公職に就く黒人の数は増えたが、再び厳しい差別が行われるようになった。憲法修正による黒人の投票権保護は効果を発揮することはなかった。1876年以降、南部の黒人の市民権や投票を制限する州法が相次いで制定された。そうした黒人の投票権を抑制する法律の総称は「ジム・クロウ法(Jim Crow Acts)」と呼ばれた。

 奴隷制度廃止で自由になった黒人は、奴隷からプランテーションで働く賃金労働者、季節労働者となった。極論すれば、競争的な労働市場に放り込まれた黒人は奴隷時代よりも厳しい経済状況を強いられた。南部の黒人政策の柱は、労働契約に関するものであった。ルイジアナ州は過酷な労働から逃げ出した黒人を対象とする「逃亡労働者法」を制定した。労働契約を破った黒人に厳しい制裁が課された。ミシッシッピー州では黒人に特別税を課していた。同州は憲法修正第13条(奴隷制度廃止)の批准を拒否した州でもあった。黒人に対する投票税の課税、識字試験の実施、投票所の不便な場所への設置などを通して黒人の投票は制限された。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・デー(キング牧師の日)に投票権の保護を訴える人々 Bloomberg
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・デー(キング牧師の日)に投票権の保護を訴える人々 Bloomberg

 1883年、最高裁は公民権法に違憲判決を下した。1890年にミシッシッピー州は黒人の選挙権を剥奪することを決定した。1896年に最高裁は「黒人を分離しても平等である(separate but equal)」として、黒人の隔離政策を合法化する「プレッシー対ファーガソン判決」を下した。ジム・クロウ法は、マーチン・ルーサー・キング牧師などに率いられる公民権運動を経て、民主党のリンドン・ジョンソン大統領の下で「公民権法」(1964年)、「投票権法」(1965年)が成立するまで存続した(※注:かつては民主党が奴隷制度維持の保守派、共和党は奴隷解放を支持する革新政党であったが、後にそれぞれの性格が逆転する。この点については今後、当連載の中で解説したい)。

 最初に指摘したように、民主主義の大原則は「公平な選挙」である。だが、アメリカは建国以来、「公平な選挙」は存在しなかった。1965年の「投票権法」の成立で初めて「普通選挙」が実現したのである。厳密に言えば、アメリカ民主主義が確立されたのは1965年であり、「本当のアメリカ民主主義の歴史」は60年にも満たないのである。

 後編では1965年以降の60年の歴史を振り返る。

>>後編に続く

中岡 望(なかおか のぞむ)

1971年国際基督教大学卒業、東京銀行(現三菱UFJ銀行)、東洋経済新報社編集委員を経て、フリー・ジャーナリスト。80~81年のフルブライト・ジャーナリスト。国際基督教大、日本女子大、武蔵大、成蹊大非常勤講師。ハーバード大学ケネディ政治大学院客員研究員、ワシントン大学(セントルイス)客員教授、東洋英和女学院大教授、同副学長などを歴任。著書は『アメリカ保守革命』(中央公論新社)など

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