小説 高橋是清 第211話 満州国 板谷敏彦
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(前号まで)世界不況の中、日本が国際社会から孤立するのにあわせて円は下落を続ける。国際連盟は日本に対し満州からの撤兵勧告案を採決、日本は国際連盟を離脱する。
「まさに即ち3千万民衆の意向を以って即日宣告して中華民国と関係を脱離し、満州国を創立す」
昭和7(1932)年3月1日の満州国建国宣言の一部である。
その要旨は清国が滅び中華民国となって以来、軍閥の暴政によって塗炭の苦しみを味わってきた満蒙3000万市民に理想郷を提示し、世界政治にとって新たな模範となる国家を建設することだと強調する。民本主義、民族協和、王道主義が提唱された。
民本主義とは天皇(皇帝)君主制における民主主義であり、民族協和とは日、漢、満、朝、蒙の五族が平等に協力するという意味である。そして王道主義とは儒教思想に基づいて真の王者が徳をもって治める理想国家「王道楽土」のことだ。
陸軍との対立
ただし国防及び治安維持は日本に委託、執政溥儀(ふぎ)に次ぐ地位の参議、また中央・地方の官庁にも日本人を任用し、その選任・解職には関東軍司令官の推薦・同意が必要だった。欧米から傀儡(かいらい)国家と呼ばれる所以(ゆえん)である。
設計者の一人である関東軍参謀石原莞爾も、満州国の事実上の主権者は関東軍であると認めている。この国は日本の帝国議会が認める以前に建国されたのであるから、日本の植民地というよりは関東軍の植民地から始まった。
その後昭和9年に国号を満州帝国として執政の溥儀は皇帝に即位する。
建国の年、昭和7年8月の人事異動で満州事変を画策した石原莞爾らが関東軍を去り日本へ帰国すると、関東軍指令官には武藤信義大将、参謀長には小磯国昭中将とそれまでよりも1階級上級の将官が就任した。関東軍という組織の格が上がったのである。
振り返れば、元々日本が保有する満州の権益は日露戦争後のポーツマス条約でロシアから得た旅順、大連の租借権(1923年まで)、南満州鉄道の敷設権(1939年まで)だった。
「20億円の軍資金と10万人の大和民族が流した血潮によって獲得された満州」
当時の日本はロシアから賠償金を獲得できなかったこともあり、これらの利権は貴重な収穫物である。米国鉄道王ハリマンは南満州鉄道に資本参加を望んだが、当時の外務大臣小村寿太郎はこれを拒んだのであった。
南満州鉄道の新規公開株式は日本国民の間で空前の人気となったが、租借権に時間的な限りがあるものだからその後の満州に対する民間の投資は振るわなかった。
そこで日本は第一次世界大戦中の1915年、列強が欧州での戦争に没頭している隙(すき)をついて「対華二十一カ条要求」を中華民国に突きつけ、これによって大連の租借権延長(1997年まで)と南満州鉄道の敷設権延長(2004年まで)を勝ち取ったのだった。
昭和7年の満州国建国は、世界恐慌を受けて欧米各国によるブロック経済化が進む中、租借権だけでは不十分と考えた陸軍が、日本独自のアウタルキー(自給自足経済圏)を確保するため策動した次のステップであった。
そこには「20億円の軍資金と10万人の大和民族が流した血潮によって獲得された満州」という日露戦争以来のロジックがよみがえる。
それまでに費やした労力やお金、時間などを惜しみ、それが以降の意思決定に影響を与えることを、サンクコスト効果と呼ぶ。このスローガンは以降の陸軍の行動を常に戦闘行為へと縛り付ける。
また当時の日本の1人の女性が生涯に産む子供は東京、京都、大阪、兵庫の大都市圏で3~4人、地方は5から6人もあった。昭和恐慌以降の不景気によって都会で職を失った農家の…
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週刊エコノミスト
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