小説 高橋是清 第212話 帝人事件 板谷敏彦
有料記事
(前号まで)満州国の主導者は関東軍であり、昭和恐慌で生まれた農村の過剰人口の受け皿でもあった。国際連盟は満州からの撤兵勧告案を採決、日本は国際連盟を離脱する。
「米国の新しい経済政策はどうですか?」
娘婿の岡千里は、赤坂表町の屋敷の庭をぶらぶらと散策しながら是清に聞いた。
時は昭和8(1933)年9月、この年日本は満州国建国問題で国際連盟を脱退し、ドイツではヒトラーが政権を掌握、米国ではフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任してニューディール政策を開始した年である。
国会での質問攻めにはうんざりだが、相手が身内の娘婿であれば是清も気楽なものだ。
「あれは一つの大きな試みであるが、理論が多くて実際的な成果を得るには困難だろうね。実際の仕事においては、応急な策を講じなければならない場合が多いものだ。それを理論的にやろうとするときっと失敗するよ」
是清の経済政策の根本は国民が働き、その労働の価値が高まることである。ニューディール政策の中の1人当たりの仕事を半分にして失業者を減らすという方策に対して、これでは怠け者を増やすだけだと批判的だった。
米国の景気回復は第二次世界大戦による戦争の特需まで待たなければならない。岡は現役のしかも最高の大蔵大臣と会話できる無上の喜びに浸っていた。
総辞職へ
是清が大蔵大臣に就任して1年と少しが経過した。軍事費や時局匡救(きょうきゅう)費の散布、金本位制停止による円安で諸物価が上昇し始め、日本の景気回復は次第に鮮明になりつつあった。
また満州事変も同年5月に塘沽(タンクー)停戦協定が締結されて落ち着きを取り戻していたところだ。
時の斎藤実内閣は「中間内閣」だとか「変態内閣」と呼ばれていた。何が変態なのかというと、先代の犬養毅内閣までは政党首班が率いる政党内閣だったのが、首相の斎藤は海軍出身で政党出身者ではなかったからである。
当時三つのグループが政権を争った。
ひとつは現政権である斎藤内閣を支える元老の西園寺公望など宮中グループである。これは国際協調的な現状維持の立場であった。
2番目は国粋主義を掲げる国本社の会長であり、司法官僚の大ボスで枢密院副議長でもある平沼騏一郎を首相に頂こうとする陸軍や右翼グループである。
そして3番目は政党政治の復活を目指す鈴木喜三郎総裁率いる、議会第一党の政友会であった。
是清は政友会長老ではあるが、鈴木や党利党略に走る政党に対する信頼は低かった。
昭和9(1934)年1月17日の時事新報(当時の5大新聞の一角)が「番町会を暴く」という連載記事の中で、帝人株を巡る贈収賄疑惑を取り上げた。世にいう帝人事件の始まりである。
帝人は昭和2年の昭和金融恐慌で倒産した鈴木商店が大正7年に設立した帝国人造絹糸株式会社の略である。
鈴木商店倒産時、台湾銀行には担保として差し入れた帝人株22万5000株が残っていた。
昭和8年春になって、株価も堅調に推移する中で、財界人グループの番町会に鈴木商店前経営者の金子直吉も絡み帝人株の買い受け団が結成され、台湾銀行の売りで10万株の売買が成立した。
そしてそのすぐ後帝人は増資を発表して株価は大きく値上がりしたのである。
時事新報の記事によると株売買の際に各方面に贈収賄が行われ便宜が図られたと書かれていた。政財界官界をも巻き込む大スキャンダルだというのである。
衆議院本議会において政友会による斎藤内閣閣僚に対する追及が始まると、検察が本格的に動き出した。政友会と司法つまり政権を狙う二つのグループが動き出したのである。
まず検事局は台湾銀行幹部を贈賄の疑いをもって検挙、強…
残り1314文字(全文2814文字)
週刊エコノミスト
週刊エコノミストオンラインは、月額制の有料会員向けサービスです。
有料会員になると、続きをお読みいただけます。
・1989年からの誌面掲載記事検索
・デジタル紙面で直近2カ月分のバックナンバーが読める