首都に連れ添ってきた赤線が地価高騰で消えるアメリカ的合理性 峰尾洋一
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筆者がワシントンDCに住んだ印象は、「ワシントン=永田町+霞が関+上野」だ。その他の街の機能はあるものの、目立つのは連邦議会議事堂、ホワイトハウス、博物館と美術館。そんな街に「赤線」地帯が存在していたと聞いたら驚かれるであろうか。
ワシントンで最初に議会が開催されたのが1800年。それから時を置かずに「娼館(しょうかん)」が隆盛期を迎えることとなる。現在はスミソニアン博物館が並ぶ辺りに、娼館が集まる区域が存在した。
中でも19世紀半ばに活躍したマリー・アン・ホールというマダム(娼館の女性経営者)が経営していたものは規模、知名度ともにトップクラスだった。1997年の発掘調査では、彼女の娼館跡からは、高級シャンパンのボトルや肉の骨、カキの殻などが見つかっており、議会関係者をはじめとした上客を抱え、連夜、山海の珍味が供されていたことがうかがえる。
南北戦争を挟んで栄えたワシントンの赤線地帯だが、その後、取り締まりが強化され、14年には正式に娼館が禁止される。だが、それで終わったわけではない。70~90年代には、ストリップクラブなどが並び、「街娼」が集まる赤線地帯が存在していた。
業を煮やしたDC警察
89年には度重なる取り締まりにもかかわらず、なくならない売春行為に業を煮やしたDC警察が、24人の街娼を隣のバージニア州に追放するという事件も起きた。「歩みを止めたら逮捕する」と後ろからパトカーで脅し、州境に向かって行進させたとされる。
2000年代に入っても、「DCマダム」と称されたデボラ・パルフレイが長期の禁錮刑を求刑されたことに落胆して自殺する事件が起きている。売春仲介の容疑で捜査を受けた彼女の顧客リストは1万~1万5000人に上ったとされ、上院議員の一人が顧客だったことを認めて…
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週刊エコノミスト
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